第7章 おらの…僕の覚悟
やんぐって何だろう…? 尊敬する先生のお言葉の意味を考えながら、僕は縁側でひとり立ちつくしていた。と、
「こんなところで何してんのよ?」
お嬢様の険悪な声に、僕は我に返った。
「お、お嬢様こそ、お客さんのお相手をしていたのではないのですか?!」
僕は不覚にも、砂糖壺に鼻づらをつっこんでいるところを見つかった飼い犬のように、びくりと後ずさった。
「厠に行くのよ。悪い?!」
お嬢様は、ぎろりと僕をにらみつけた。
「いいえ、目つき以外は…」と、僕は自室に逃げ帰ろうとしたが、そのとき、はっと思いついて、あのことをお嬢様に尋ねた。「あ、あの、やんぐって、どういう意味ですか?」
「やんぐ…?!」
お嬢様が、左右の眉を段違いに吊り上げながら、尋ね返した。
「ええ…さっき、先生が、君はこの家で一番、若いのだから、もっとやんぐらしてくしていたまえとおっしゃったんですが、やんぐって言葉の意味が分からなくって…。あ、もしかして、やんすの活用形ですか?!」
僕は、自分の冴えた思いつきに声を高くしたが、お嬢様は、はん、と鼻の先で笑った。
「やんすとは何の関係もないわよ…。でも、いい線いってるわ。やんぐってのはね、東京弁で、玩具のことよ。玩具を早口で言うと、やんぐ、って聞こえちゃうのよ」
「玩具…?」
僕が怪訝に繰り返すと、お嬢様は力強く頷いた。
「そう、玩具。おもちゃよ。分かる?」
「ええ…」
それは分かるけど、先生は一体何を…と考えあぐねていると、お嬢様が先回りして、お答えくださった。
「つまりね、あんたは、この家で一番若くて未熟で、皆の玩具のようなものだってことよ。だから、皆のおもちゃらしくしていたまえって、お父様は言いたかったの。分かった?」
「ぼ、僕は、この家のおもちゃ…?!」
衝撃に、その先の言葉を継げずにいる僕に、お嬢様は頷いてみせた。
「あんた、それ以外のなんだと思ってたの? いけ図々しいったら。あんたは、この家のおもちゃよ。だから、お父様も、あんたをこの家に置くことにしたのよ。じゃなきゃ、いくらお父様が浮世離れしたトンチキでも、ここまで好き勝手に私にあんたをいたぶらせておくわけがないでしょうが」
そ…そんな…! 僕は最初から、この家のおもちゃとして招かれていたのか? そ、そんな、あのお優しい先生が…でも…。僕は、初めてこの家に来たとき、優しく僕を迎え入れてくれた先生を思い出した。年の離れた友達だと思ってくれ、とおっしゃってくださった先生…ぼくが医者になるまで、このお屋敷に無償で置くことを快諾してくださった先生…僕だけでなく、僕の村の人達をも救ってくださろうという先生のお気持ち…そんな先生が、僕に、この家のおもちゃになれとおっしゃるなら…
僕はおもちゃになる!!
「やっと覚悟ができたみたいね?」
いつの間にか、天使のようなとびきりの笑顔を浮かべたお嬢様が、僕をみつめていた。その顔を見たら、何だか背筋がざわっとしたが、自分の決意に胸を熱くしていた僕は、黙って頷いた。
「それを聞いたら、お父様もお喜びになるわ」
お嬢様も優しく頷き返したが、ふと、その瞳が僕の背後の何かをみつめて、きらりと光った。そして、突然、僕に力いっぱい頭突きをした。
「ぐぎゃあっ!!」
僕は、縁側にもんどりうって倒れた。と、突然、何を…? いつにもまして理不尽なお嬢様の仕打ちに戸惑いながら、僕は這いつくばって、お嬢様を見上げた。と、
「ははは。ケンカかい? 元気があるのはいいけど、暴力はいかんね」
りゅうと背広を着こなした粋な紳士が、僕達の脇を通り過ぎて厠に向かった。胸ポケットから覗く金時計の鎖が光って、目を刺した。
「あれが広田さん…?」
這いつくばったまま呟くと、
「なんで、ぶっ倒れるのよ、情けない!!」
お嬢様は、僕が鼻紙で頬を打たれて失神したとでも言いたげな目つきで、僕を見下ろしていた。
「お、お嬢様が僕に頭突きするからじゃありませんかっ!」
しかも力いっぱい、突然に! 僕が憤慨しながら立ちあがると、お嬢様も噛みつかんばかりに、足を一歩前に踏み出した。
「頭突きですって?! あれが、頭突きですって?!」
「それ以外のなんだって言うんです? お嬢様の石頭で前歯が折れるかと思いましたよ!」
そうでないことを確かめるために、僕は口元をぬぐいながら叫んだ。
「あんた、どこに目をつけてるのよ! あんたの前歯にぶつかったのは、私の頭じゃなくて、私の前歯よ!」
「そんなこと知るわけないじゃありませんか。ぶつかった瞬間は、びっくりして目をつぶっちゃったんだから!」
「びっくりしたですって?! それしか言うことはないの? 私にキッスされておいて! 私のキッスを頭突きですって?!」
お嬢様は、頭の上の蝶々を揺らしながら、足を踏み鳴らした。
「…鱚?」
庭に魚屋でも入ってきたのかと思って、僕は辺りを見回したが、お嬢様にぺチンと頭を叩かれた。
「キッスは英語で、接吻のことよ、馬鹿!」
「…東京では、節分に頭突きを交わし合うのが風習なのですか? それも真夏に…?」
にわかには信じられぬ思いで、お嬢様の言葉を反芻していると、また頭を叩かれた。
「あんた、英語だけじゃなく、日本語も聞きとれなくなったの?! 節分じゃなくて、接吻! 口吸いのことよ!!」
「あの頭突きが接吻…?!」
と呟いて、僕は三度、頭をひっぱたかれた。
「ほらほら、暴力はよしたまえ、小夜さん。こんな小さな子供をいじめちゃだめだよ」
と、さっきの紳士が厠から戻ってきた。看板に描かれた役者のように、つるりと整った顔をした人だった。若いけれど、お嬢様や僕と比べると、かなり年上に見えた。
「小さな子?! 茂吉は私と同い年よ」
お嬢様は噛みつくように言い返した。
「茂吉君…? ということは、彼が、最近、東北からやってきたという書生かい? こりゃあ、失敬した。もっとむさくるしいのを想像してたんだが、女の子みたいにきれいな顔をしているから、若く見えたんだな」
男の人は僕に手を差し出して笑った。
「僕は広田慎治。この秋から、帝国大学で研究室を持たせてもらうことになっているんだが、今までずっと二階堂先生に助手として使ってもらっていたんだ。宗助君とも友達だし、この家の人には、皆、よくしてもらってる。君もよろしく頼むよ」
広田さんは、僕の手を握りながら、お嬢様に横目で笑ってみせた。
広田さんは、小さなことにこだわらない、大らかでいい人のように思われた。そうでなければ、あの暴力沙汰を目撃した後でも、お嬢様をもらいたいなんて気にはなれまい…。それに、あの金時計は、帝国大学を首席で卒業したという印に違いない。先生が、なるべく早く広田さんにお嬢様をもらってもらいたいとお考えになるのも、もっともだった。
お絹さんや栄作さんも、広田さんは申し分のない縁談の相手だと思っているようだった。
でも、お嬢様は、明らかに、そう思っていなかった。
「なんで頭…」頭突き、と言いかけて、僕は慌てて言い変えた。「なんで接吻なんてしたんです、僕に?」
広田さんが帰った後、再び縁側で出くわしたお嬢様に、僕は尋ねた。
お嬢様は、お客さんが帰ってホッと一息ついたのか、いやな目つきで縁側に座って、垣根越しに道行く人々を威嚇しながら、ありのままの邪悪な様子で寛いでいらっしゃった。
「この縁談をぶち壊すためよ。決まってるでしょ? あのイカレポンチも、私があんたと昼間っから縁側で接吻しているのを見れば、この縁談はなかったものにしてほしいと言い出すでしょうからね」
お嬢様は、他人の爪の間にたまった泥を見るような目つきで、僕をにらみつけた。
「よさそうな方ではありませんか…」
僕は遠慮がちに、しかし、確信を込めて答えたが、お嬢様は、へん、と鼻を鳴らした。
「よさそうだろうが、なんだろうが、私はお嫁になんか行かないのよ」
「なぜです…?」あの人を逃したら、次の機会は…と言いかけて、僕は慌てて言葉を変えた。「いつかはお嫁に行かなきゃならないんだから、いい方をみつけたときに、しておいたほうがいいんじゃないですか?」
「女だから結婚しろっての? 随分、考え方が古いのね!」
「…僕は物知らずだから、考え方に少し旧弊なところがあるかもしれません…」
僕が顔を赤らめて黙り込むと、お嬢様は勢いづいて、続けた。
「私はお嫁になんか行きませんよ、だ! 行ってたまるもんですか」
そう言って、下唇をつきだすお嬢様の顔が、何だか子供みたいに見えたので、僕は笑みがこみ上げてくるのを隠すために俯いた。なんだかんだ言って、この家と、お父様のことが好きなんだな…強がりだから、そうは認められないだけで…と、ちょっとホロリとしていると、お嬢様がぼそりと呟いた。
「この家の人達みたいに、喜んで私に好き勝手させてくれる人達は、他にいな…」
「誰も喜んでませーんっ!!」
と、僕が叫ぶと、お嬢様はわざとらしく傷ついた表情を浮かべてみせたが、すぐに、出刃包丁を研ぐ音よりも感じの悪い声で唸った。
「そんなに簡単に喜ばせてたまるもんですか」
ま、それでこそ、お嬢様ですよね…。僕はため息を飲みこみながら頷いた。