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第6章 お嬢様のお客様

僕は今朝も、西洋人のよだれまみれのイチゴの邪ムをたらふく食べてムカついた胸を落ちつかせるため、裏庭でひと息ついていた。


「ちょっと頼まれてくれない…?」


 と、早速、お嬢様の声が背に降りかかった。うんざり振り返ると、お嬢様は例によって、盛大に鼻にしわを寄せて僕をにらみつけた。


「私のために何かしてほしいんじゃないわよ。お父様のために、ちょっと頼まれてほしいの」

「先生のために?」


 僕があからさまにやる気を見せると、お嬢様は、床の間に生えたエノキ茸にでも話しかけているように、冷たく言った。


「これを、お父様の書斎に持っていってちょうだい」

 と、お嬢様は様々な品の載った長四角の盆を突き出した。

「…なんです、これは…?」


 マッチ、ろうそく、線香花火、ねずみ花火…先生に書斎で花火をする習慣があるとはとても思えないのだが、ここまではまだ分かる。少なくとも、これらの品物には関連性がある。でも…折れ釘、猫いらずの瓶、ハエ取り紙、蚊取り線香、硝子瓶の破片…これらの品物には、いったい何の意味と関連性が?


 僕が、盆から顔を上げると、お嬢様はにこりと愛らしく笑った。不吉な予感が、僕の胸に走った。


「この品々をね、お父様の机の上に並べてきてほしいの」

「なぜです…? 先生のお勉強の邪魔になるでしょう?」


 僕は用心深く尋ねた。お嬢様のほほ笑みは、ますます天使のように輝いた。凶兆だ!


「大丈夫よ。お父様のお勉強は、机の上で書き物をする時間よりも、机の上にあるものを何でもいいから口にくわえて考え事をしてる時間のほうが長いから!」

「じゃあ、これらのものを、先生がお口に入れてしまうってことじゃないですかっ!!」


 僕が盆の上の危険物を指さして叫ぶと、お嬢様のほほ笑みはいっそう輝きを増した。


「かもね?」

「かもね、じゃありませんよ! 絶対、入れちゃいますよ!」僕は今朝も、定規を口にくわえながら…しかも、三角定規の直角のところをくわえながら食堂にお出でになった先生の姿を思い出し、絶叫した。「折れ釘なんかくわえさせてどうするつもりですっ?! て言うか、猫いらずの瓶なんかくわえさせて、うっかり薬が口の中に入ったら、死にますよ! これは犯罪ですっ」

「だから、あんたに頼もうと思って…」

「お断りですっ!」


 お嬢様は傷ついたような表情を浮かべたが、僕がそんな手に騙されないと知ると、すぐに、いつもの邪悪なご様子に戻った。


「ちっ…。じゃあ、私がやるから、いいわよ。臆病者!」

「お、臆病とか、そう言う問題じゃありませんよ! これはほんとに犯罪ですよ」

「…じゃあ、猫いらずと折れ釘はやめるわよ。でも、ハエ取り紙がお父様のひげにくっついたり、蚊取り線香がお父様の口の中で、落雁のようにほろほろと崩れたら、面白くはないこと?」

「面白くありません! ハエ取り紙も蚊取り線香も食べ物じゃないんだから、口に入れたら毒ですよ」


 お嬢様は、ふん、とばかりに肩をいからせたが、ちょっと考え込んでから言った。


「じゃあ、食べ物ならいい? たとえば、とんがらしとか、生わさびとか…」

「そんなもの口に入れたら、目から火が出ますよ!」

「じゃあ、腐ったミカン…」

「腐った食べ物も、体に毒ですっ」

「じゃあ、新鮮なジャガイモの芽なら…」

「新鮮でも毒は毒ですっ! って、なんだろうと、そんないたずらに加担するのはお断りです!」

「…あんた、この家に何しに来たの?」


 お嬢様は心底軽蔑しきった目を僕に向けた。


「僕は将来、医者になって、故郷で…」

「お嬢様、お客様でございます!」


 僕はカッとなってまくしたてかけたが、お嬢様を呼ぶお絹さんの声に口を閉じた。ちょっと早いけど、もしかして…


「広田さんがお見えになりました。お嬢様も至急、応接間にいらっしゃるよう、先生がおっしゃってます」


 お嬢様は、ちょっちょっちょっ!と、気の立った鶏みたいに舌を鳴らしながらも、盆を僕に押しつけて応接間に向かった。







 広田さんとやらが、この家にいる間は、僕も安全だ…つかの間の安らぎのひとときを有効に活用せねば。そうだ、部屋に戻って、先生のお古の幾何の本を読もう!と、駆け出したのだが、


「茂吉君…」


 縁側のところで、先生に呼び止められた。今は、何も口にくわえていなかった。多分、今、難しいことは何も考えていないのだろう。先生には珍しいことだ。


「勉強ははかどってるかね?」

「は、はい、おかげさまで…」


 僕はなぜか赤面しながら答えた。先生は、お嬢様と違って、とてもお優しいけれど、あまりにお顔やお姿が端正でご立派なので、声をかけられるといつも緊張した。それに、いつも口に何かくわえている…というか、考え事をなさっているから、親しくお話しする機会もあまりない。


「あの万年筆の使い心地はどうだい?」

「はい、風呂敷に包んで大切にしまってます」

「はははは。使わなくてはだめだよ」

「はあ…」


 僕は頭を掻いた。


「広田君には、もう紹介したっけかな?」

 先生は、ふと話題を変えて、応接室のほうをちらりと振り返った。

「いえ、まだ…」

「そうかい。じゃあ、後で紹介しよう。小夜の婚約者なんだよ。小夜は、まだ承知していないがね。ははは」


 お嬢様は承知していない…。まあ、なんだって素直に承知するような方ではないが…


「でも、私と広田君の間では、すっかり合意が出来上がっているのだよ。彼は、小夜が学校を出たら、すぐにももらいたいと言ってくれているんだ。奇特な男だろう?」


 僕もまったく同意見だったが、もちろん、そう答えるわけにはいかなかった。


「では、来春には先生もお寂しくなりますね」

 先生はまた、浮世離れした学者らしい、のんきな笑い声をあげた。

「女学校を出たら、あいつは毎日、家にいて、毎日、家でいたずらばかりするだろうからね。そんなことになったら、かなわん。いたずらは、なるだけ、よそでやってもらわないと」


 …よそだったら、してもいいんですか? 今すぐ、やめさせる気はないんですか?という疑問が喉まで出かかったが、もちろん黙っていた。


「とにかくだな、広田君には、ぜひ、来春、早々に小夜をもらってもらわないと。君もそう思わんかね、茂吉君?」


 そう思います!と僕は心の中で即答したが、控えめに頷くだけにしておいた。


「あいつは君のことが気にいっておるようだから、君からもぜひ、広田君と結婚したほうがいいと、小夜に勧めてやってくれ」


 お嬢様が僕の意見に耳を傾ける可能性は、大学生が猫に宿題の答を聞く可能性と同じくらい低いが、敬愛する先生のご意向にはなるべく添いたいと僕も願っている。僕自身にしても、医者の資格を取るまで、あと七、八年はこのお屋敷にご厄介になるのだから、その間、ずっと、お嬢様のくりくりに怯えながら日々を過ごすわけにもいかない。


「いたずらは、よそでしてもらわんと!」


 先生のお言葉に、今回は僕も力強く頷いた。今すぐやめさせられないなら、なるべく早く、よそでしていただくことにするのが一番だ。僕達は、固いきずなに結ばれた同志のように、みつめあって何度も頷いた。


「…さてと、では、広田君が帰るとき、君を紹介してあげよう。それまでは、若い二人の邪魔はせず、私は書斎で勉強をさせてもらうよ。茂吉君、君も若いんだからね、部屋で本ばかり読んでいず、少しは外に社会見学にでも行くといい。小夜は四月生まれで、君は七月生まれだから、君は、この家で一番若いんだ。ヤングなんだから、もっとヤングらしく、楽にしていたまえ。ははは! では、失礼」


 先生は、僕の肩をぽんと叩くと、書斎のほうに行ってしまわれた。や、やんぐ…?




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