第5章 おらの…僕の評判
「茂吉君!」
先生にお使いを頼まれて外に出かけようとすると、門口の大きな松の木の下で栄作さんに呼び止められた。
「何か御用ですか?」
僕が振り返ると、栄作さんはよく日焼けした顔に真っ白い歯を光らせながら笑った。本人に聞いたころによると、栄作さんのご両親は宮崎の出身なのだそうだ。栄作さんを見ると、僕はいつも、見たこともない南国のまぶしい太陽を想像して、明るい心持になった。栄作さんも、僕と同じで、九州に足を踏み入れたことはないそうなのだが。
「郵便局に行くのかい?」
栄作さんは、僕の手の中のエヤメイルを指さした。外国に出す郵便は、エヤメイルと言うのだと、さっき先生に教わった。
「はい」
「俺も一緒にそこまで行くよ。煙草屋に行きたいから」
僕達は揃って二階堂家の門を出た。
「お屋敷にはもう慣れたかい?」
なんと答えていいのか分からなかったが、僕は一応、頷いておいた。
「ええ…。たいして皆さんのお役にも立っていなくて申し訳ありませんが…」
「いやあ、そんなことないよ!」栄作さんは僕の肩を叩くと、爽やかにほほ笑んだ。「君が来てくれたおかげで、皆、助かってるんだ。お絹さんも、そう言っていたよ」
「え…? そうなんですか? それなら嬉しいけど…」
僕は顔を赤らめながら、尋ね返した。
「うん。もちろんだよ! 俺とお絹さんだけじゃなく、車屋の源さんも、郵便配達のオヤジも、牛乳屋の小僧も、洗濯屋のかみさんも、皆、君が来てくれてよかったって言ってる」
「え…? そんな…」
「ほんとだよ。皆、そう言ってる。町中の奴が、この町に君が来てくれてよかった、君のおかげで町がよくなったって言ってる」
ちょっと買いかぶられ過ぎだけど、町の人が皆、僕を歓迎してくれてると思うと、喜びに頬が緩むのを押さえきれなかった。ここに来る前は、田舎者だからつまはじきにされるんじゃないかと心配していたけど、東京の人達は存外、心が広くて温かいらしい。今度、手紙で田舎の母ちゃんにも、このことを書かなくちゃ…鼻の奥がツンとしてきたので、僕は慌てて俯いた。
「皆が言っているよ。君が来てから、お嬢様のいたずらの矛先が皆、君に向かってるから、本当に助かるって。町がよくなった」
は…。お嬢様の嫌がらせは町単位で行われていたらしい…。確かに、この間、お嬢様のお友達がおっしゃっていた通り、お嬢様のいいところは誰にでも平等に意地悪をするところなのだろう。僕が来るまでは。でも今は、僕にすべての矛先が…
「そうそう…お嬢様から町を救ってくれたお礼に、ひとつ、君の役に立つかもしれないことを教えておくよ、茂吉君」
僕が顔を上げると、栄作さんは人差し指を立ててみせた。
「お嬢様が、天使のような顔をしているときは要注意だよ。妙に優しい言葉で話しかけてくるときもね。悪魔みたいな顔で悪態をついているときのほうが安全なんだ。それがお嬢様の正常な状態だからね。まあ、こんなことは、君ももう気付いているかもしれないけど…何せ、君は、すっかりお嬢様のお気に入りだからね」
栄作さんに朗らかに笑いかけられて、僕は震えるように頷いた。お気に入りといっても、攻撃対象として気に入られてるだけだけど…。
「やあ、書生さん! 調子はどうだい?」
栄作さんの言う通り、僕の町での人気は上々のようだった。そちこちからかかる挨拶の声に、僕は半ベソの笑顔で手を振り返した。
「うわあああああああああっ!!!」
エヤメイルを出して、自分の部屋に戻るなり、僕は悲鳴を上げて尻もちをついた。何のことはない…襖の上のに濡れ雑巾がしかけられていただけのことだった。もちろん、お嬢様の仕業だ。でも、襖を開けた途端、顔の上に、据えた臭いのする、ぬめぬめとした物が落ちて来たもんだから、自分でもびっくりするほど、びっくりしてしまった。
僕はそんな自分を若干、腹立たしく思いながら窓を開けると、外に向かって濡れ雑巾を絞った。と、
「やっとお帰りね。散々、町をほっつき歩いて」
僕がすっ転ぶところを廊下の角に隠れて覗いていたのだろう。お嬢様が音もなく敷居の上に現れた。
「寄り道なんかしてませんよ…」
僕は憮然と雑巾を窓の桟に干した。
「ふーん。でも、あんた、町でちやほやされて、いい気になってるって噂じゃないのさ?」
「いい気になんかなってません!」
どうだか?と訝るように、お嬢様が鼻にしわを寄せた。まったく、ひと時も心休まる暇がないんだから!
でも、ありのままに邪悪な様子のお嬢様を見て、僕はほっとため息をついた。栄作さんも言っていた通り、お嬢様が邪悪な様子をしていなさるときは、ありのままの姿で寛いでいらっしゃるということだから、それほど警戒する必要はない。言うことなすこと、腹立たしいのはいつも変わりないが…
「あんた、町を救ったとか言われて、いい気になってるそうじゃないの?」お嬢様の嫌がらせは続いた。「まったく、こんな小さな町一つ救ったくらいで、鼻高々になってるとは、あんたも度量の小さい男ね。どうせなら、国を救ったと皆に言わせたらどう? あんたが来てから、あたしの意地悪の矛先が全部、あんたに向かって、国がよくなったって、皆に言わせてみなさいよ!」
「つまり、お嬢様は、国単位で嫌がらせをするという野望をお持ちだということでしょう…?」
僕の度量とは何の関係もないじゃありませんか…
「野望じゃなくて、大望よ! ボォイズ・ビィ・アンビシャスって格言、あんた、知らないの?!」
お嬢様は人差し指の先を、僕の眉間の一寸ほど上のところで、くりくり回した。あ、眩暈が…
「ぼ、坊主がいったい何を…?」
僕は、くりくりに必死で耐えながら、坊主と大望がどうこうする故事格言を思い出そうとしたが、力及ばず、お嬢様に額を指ではじかれた。
「あんた、本当に英語に弱いのね! アルファベッドも知らないんでしょ?」
「有馬の別当…? 熊野神社別当支流の有馬家の話がなにゆえ英語と関係あ…」
「あ・る・ふぁ・べっ・ど!」
お嬢様が足を踏みならしながら、一語、一語、はっきりくぎりながら叫んだので、僕にも何とか聞き取れた。
「亜瑠覇蔑弩…?」
「今、絶対、漢字で考えたでしょーっ!!!」
やっと聞き取れたと思ったら…お嬢様がまた、僕の眉間の上で人差し指をくりくり回すから、僕は後ずさりに部屋から逃げ出した。
「うう…」
あれからずっと、お嬢様が僕の顔を見るたび、眉間の上でくりくりするので、僕はすっかり平衡感覚がおかしくなってしまった。家の中にいると、またいつお嬢様と出くわすか分からない…というか、どこでお嬢様が待ち伏せしているとも限らないので、僕は門の前にしゃがんで本を読んでいた。
「まあ、書生さん、ごきげんよう」
近所のお茶の先生が、お友達かご親戚のご婦人と一緒に通りかかったので、僕は慌てて立ちあがると、頭を下げてお二人を見送った。
「とっても礼儀正しくてかわいい書生さんね」
「美少年でしょ? 目なんか潤んでるように輝いてて…」
遠ざかるお二人の会話が耳に入り、僕はひとりで赤面した。僕の目が潤んでいるように見えるのは、お嬢様にいじめられて、いつも半ベソをかいているから…ということは、あのお二人にも、この町の誰にも言えない…。
顔を赤くしているところを誰にも見られたくなかったから中に戻ると、お嬢様が玄関で人差し指を僕に向け、くりくりと…
「うう…!」
僕はその動きを見ただけで、臆病な羊のように、その場で腰が抜けそうになった。平衡感覚だけでなく、精神もおかしくなってしまったに違いない… 僕は真下を向いて、くりくりを見ないように気をつけながら、お嬢さんの脇を通り抜け…
「にゅわわわわっ…!」
ようとしたのだが、お嬢様がしゃがみこんで、下からくりくりをするので、僕は後ずさりながら尻もちをついた。
「あはははは! 茂吉が催眠術にかかった! 茂吉が催眠術にかかった!」
お嬢様は変な節をつけながら、そう繰り返すと、楽しそうに家の中に入っていった。催眠術なんて呼べるほど、高等な術じゃないじゃないか…! と、後ろ姿に向かって叫んでやりたかったが、そんな低級な術に、いつでもまんまと引っ掛かる自分自身を顧みて、僕はため息を飲みこんだ。
「まあ、茂吉さん、また催眠術に…?」
と、言ってるそばから、お絹さんがやってきて、気の毒そうな声を出した。
「…お出かけですか?」
立ちあがり、咳払いをしながら尋ねると、お絹さんは鬢の毛を撫でながらほほ笑んだ。
「日本橋までお菓子を買いに」
「お客さんでも見えるんですか?」
「ええ、明日、広田さんがお見えになるってご連絡が」
「広田さん…?」
「ええ、広田さんです。ご存じない?」お絹さんは含み笑いに目を細めた。「広田さんはお嬢様の許嫁者でいらっしゃるんですよ」
「いいなずけっ?!」
僕が思わず素っ頓狂な声を出すと、お絹さんはおかしそうに、袖で口元を隠した。
「そんなに驚くこともないでしょ? お嬢様ももう十六で、来年の春には女学校をご卒業なさるんですもの。まあ、正式に婚約なさったわけじゃありませんけど、広田さんはすっかりその気だし、先生もなるべく早くお嬢様をお片づけになりたいようだし…」
まあ、おらの母ちゃ…僕の母も十五で結婚したのだから、何も驚くことはない。でも、あのお嬢様が…
僕は、ありのままの邪悪な姿で寛いでらっしゃるときのお嬢様の姿を思い浮かべて、瞬きを繰り返した。鼻にギュッとしわを寄せて、僕をにらみつけるお嬢様…歯をむき出して、僕を嘲笑するお嬢様…突然、白目をむいて、僕を驚かせるお嬢様…あんな邪悪なお嬢様、こんな邪悪なお嬢様が、僕の脳裏に浮かび、僕の精神を脅かした…あれで、お嫁になんぞいけるものだろうか…というか、普通に社会生活が送れるものだろうか…
「じゃあ、行ってまいります」
が、お絹さんは、そんな僕の疑念をよそに、いそいそと出かけていった。




