第10章 おらの…僕の決意
広田さんはまだ応接間にいたが、僕はのぞきはやめて、縁側に腰かけていた。さっき、栄作さんから聞いた話が、頭から離れなかった。
「あ…」
書斎から出てきた先生がこちらにやってきたので、僕は立ちあがって頭を下げたが、先生は僕に気づかずに厠のほうに行ってしまわれた。口には、分度器のまっすぐな辺をくわえていらっしゃった。煎餅が半分、口からつき出ているようだったが、難しい事をお考え中だという印だ。僕は畏敬の念に打たれ、その後ろ姿をありがたくお見送りした。
しかし、実際のところ、先生は食堂では食べ物を、それ以外の場所ではそれ以外のものを、いつも口にくわえていらっしゃったから、あまり口をきかなかった。僕は、それも面白くていいか…じゃなくて、先生の立派さの証のひとつだと思って有り難く拝見していたが、お嬢様はどんな気持ちでいらしたのだろう…。文具を口にくわえる代わりに、ご自分と口を聞いてほしいと思っていたのかもしれない。お嬢様に、危険物を先生の机の上に並べてこいと脅されたとき、もしも本当に実行していれば、先生は物を口に入れて考え事をする癖をやめて、お嬢様ともっとお話しするようになったかもしれない…。猫いらずが口に入って、生きていることをおやめになった可能性もあるけれど…
あんたを巻きこんだほうが、面白い…
真夏のじっと動かない空気をみつめていると、お嬢様の言葉が、また、脳裏に甦った。
栄作さんの言っていたことは、多分、本当のことだろう。お嬢様は、あんなだけれど、やはり多分、分かっていらっしゃるのだ。あまり気は進まないかもしれないけれど、広田さんのように将来有望な方とご結婚できれば、ご自分のためになると…。お嬢様は多分、分かってる。お嬢様は広田さんと結婚したほうがいい。誰が見ても、そうだ。金目当てだろうと何だろうと、あのご気性を我慢しようという心の広い方は、そうそう現れるものではない。とびきり心温かというわけにはいかないかもしれないが、物分かりがいい方であることはたしかだ。しかも、頭脳の優秀さも証明済みだ。
お嬢様だって、そのことは分かってる。だから、僕にいたずらを仕掛けつつも、ご自分では、決定的なことは何もなさらないのだ…なら、僕だって、何もするべきじゃない。のだが…
昼食もとうに食べ終え、お帰りになる前に再び厠に立った広田さんが縁側を通るのを待ち伏せして、僕は飛び出した。
「広田さん! 僕と決闘してください!!!」
広田さんは驚きに目を見開いたが、口元にはまだ笑みらしきものが浮かんでいた。ああ、僕は何を言っているのだろう…? 頭に血が昇るのが分かったが、僕はやみくもに続けた。
「僕と決闘してください、お願いします!」
「しかし、何でまた、君とそんなことを…?」
当然ながら、広田さんは困惑に目を瞬いた。
「…この間、ご覧になったでしょう…? 僕とお嬢様が縁側でケンカしているのを…。あれは、じつを言うと、ケンカではなくて、その…えーと…」
僕はたじたじと口ごもったが、
「えーと、その?」
と、広田さんに先を促されて、思い切って先を続けた。
「僕達は、あのときじつは、鱧をしていたんです…いや鰯<あなただったかな…いや、鰆…」
「君が言いたいのは、鱚かい?」
「ああ、それ、それです! 僕らはそれをしていたのです!!」
接吻なんて言葉、恥ずかしくて使えないと思ったのだが、慣れない英語を使おうとして、結局、恥をかいてしまった。
「あの頭突きが、キッスだったって…?」
広田さんは、訝しげに首を傾げた。あれはやはり誰が見ても頭突きですよね?!と確認したい気持ちをこらえて僕は続けた。
「ええ、そうなんです。お嬢様の愛情表現は、ちょっと暴力的だから。…僕達、好き合っているのです。広田さんという立派なお相手がいるのを承知の上で、僕はお嬢様に…。お嬢様のせいではありません。卑怯者は僕です。だから、僕と決闘してください。勝ったほうが、お嬢様から…」お嬢様から逃げられると言いそうになって、僕は慌てて正しい言葉を継いだ。「お嬢様のご寵愛をいただくということで…」
「この文明開化の時代に決闘を? 帯刀はもう禁止されたって、君、知っているよね?」
僕は広田さんの言葉に頷いた。
「はい。知っています。でも、僕…僕…」頭に血が昇り、言葉がつまった。でも、僕は目をつむって、めちゃくちゃに叫んだ。「おら、小夜たんのことが好きだーっ!!!!」
そして、この場と言わず、この地球上からも永久に立ち去りたいと走り出したとき、僕は肝心なことを思い出して立ち止まり、広田さんを振り返った。
「だから、決闘していただけますか? 明日の朝、裏の空き地で…」
広田さんは、まっすぐ僕の顔をみつめた。そして、ややあってから、言った。
「参ったな、そんな泣きそうな顔をして。僕のせいで、若い二人に心中でもされたら敵わない。それに僕は相当、鉄面皮なほうだけれど、それでもさすがに、あの頭突きをキッスと称して毎日くらう覚悟はできていないよ…」
広田さんは、薄くにやりと笑うと、肩をすくめながら、厠のほうに消えた。




