第1章 おら…僕は東京に来た
おらの名は…いや、僕の名は佐々木茂吉、十六歳。明治某年夏、汽船と汽車を乗り継いで、東北の寒村から花の都東京に今、着いたばかりだ。
地主様のツテで、四谷にお屋敷を構える二階堂博士のお屋敷に、今日から書生として置いていただくことになっている。だから、これからは東京弁を使わなくっちゃいけない。自分の故郷を恥ずかしく思っているわけではない。でも、
「茂吉よ、おめえは東京さ行っだら、まずは勉強よりも、東京弁を覚えなきゃなんねえだ。なしてって、東京の学校の先生は、東京弁で授業なさるに決まっとるんだからなは」
と、故郷を出る前、地主様に言われたのだ。
僕は村の寺子屋では優等生だった。だから、地主様は僕を東京の学校にやるためのお金をすべて出してくださった。将来は医者になり、必ず故郷に戻ってきて、村の人達のために働くという条件で。
地主様の寛大な申し出と期待にこたえるために、僕は死ぬ気で努力しなければならない。村では神童と呼ばれていた僕だけれど、東京では、そうはいかないことくらい、よく分かっている。村の寺の住職に漢学だけはしっかり教えこまれたけれど、代数や幾何は初歩的なものしか教えてもらえなかったし、英語にいたっては単語ひとつ知らないという有様だ。秋から、受験準備のための学校に通わせてもらうことになっているが、こんな状態では、授業についていくだけでも四苦八苦に違いない。東京の人は早口だし、少しでも東京弁に慣れておいたほうがいいだろう。
だから、僕は、自分の心の中でも東京弁を使うことに決めた。それが、地主様との約束を果たす第一歩にもつながる。だから、おらは、いや…、僕は、
「あの…二階堂博士のお宅は、このあたりでしょうか?」
とびきり気取った東京弁で、通りすがりの人に道を尋ねた。村の友達が聞いたら「茂吉がかっこつけてら」と笑うだろうな、と思いながら。
が、僕が話しかけた町人風の若い男の人も、こちらを振り返って、にやりと笑った。
「うん、そこの道をまっすぐ行って、最初の角を右に曲がりゃあ、すぐだ。立派な門構えの家だから、一目で分かるさ…あんた、東北から来たのかい?」
なんで分かったんだろう…。ぎくりと首をすくめると、男の人はニッと目を細めて、僕の顔を覗きこんだ。
「あんた、二階堂先生んちの新しい書生だろ? 言葉ですぐに分かったよ。今度のは東北出身だって、先生とこの下女から聞いたから。うらやましいや。先生は大金持ちだから、下働きの人間の食い物をケチったりもしないしさ。ま、あそこにいたら、お嬢様の遊び相手もしてさしあげなくっちゃならんし、いいことずくめってわけにはいかねえが、腹いっぱい食わしてもらえりゃ、それが一番だよな。それに、あのお嬢様は天使のようにおかわいらしいし…しかし、あんたも色白でかわいい顔をしてるね! まるでお人形さんみたいだ」
僕がもじもじ黙り込むと、男の人は笑いながら僕の肩を叩いて、どこかに行ってしまった。僕も火照った頬を誰にも見られないように俯いて、歩き出した。人形みたいに色白で、女の子みたいにまつ毛が長いのは、僕が一番、気にしていることだった。東京にはいろんな人が沢山いるから、僕のそういうところも目立たないかな、と思っていたんだけど…。