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第9話 新たな生活の始まり

 

「ネリー、ネリーったら起きてちょうだい」


 シルヴィアは、隣のベッドに眠る侍女の頬をペチペチと叩いて揺らす。

 う、うーんと顔を歪ませたネリーが、うるさそうにシルヴィアの手を払い、再び布団の中へもぞもぞと潜り込んでいった。もっこりと膨らんだ布団の中から、途切れがちの眠たげな声だけが届いてくる。


「ひ、ひめ……さまぁ、まだ夜は明けてはいませんよ〜。もう少し寝かせてくだ……さい……あふっ」


 一度も目を開けることもなく、眠りの中へと図々しく戻ろうとする侍女を、シルヴィアは苦々しく思いながら見下ろした。


(いい加減にしなさい! 主のわたくしが起きているのに、何故堂々とお前が眠り続けているの!)


 と、切れ気味に叫び出したいのをすんでのところで我慢する。シルヴィアは苛々しながら窓の外に視線を移した。


 魔女の家を取り囲む深い森の姿が、この部屋に入った時と同じく窓枠の向こうに広がっている。

 ネリーの言うとおり、いまだ夜の闇は辺りを覆い尽くし、朝の光は訪れる気配すら感じられない。

 いったい日の出はいつなのだろう。しかし、それはもうじきだとシルヴィアは確信していた。何故なら彼女はとても長い時間を我慢に我慢を重ねて、一人眠れぬ夜を過ごしてきたのだから。


 シルヴィアが夜も開けきらないこんな時分から、どうして起き上がって侍女を起こしているのか。

 それはひとえに、顔を少しでも早く確認したかったからだ。それには家の持ち主であるダイアナが、起きる前に行動する必要があった。


 昨夜シルヴィアはあまりの寝苦しさに、誰にも知られないようこっそりと部屋から抜け出した。

 顔から始まった寝苦しさの原因は、やがて全身にまで広がっていき火照った自身を冷やすべく、彼女は森の中にある湖を目指した。


 その湖で出会ってしまったのだ。

 今まで受けたこともないような、驚くほどに心を揺さぶられる存在に。


(嫌だわ、またなの……?)


 シルヴィアは湖での一部始終を思い出して狼狽える。熱湯でも被ったように頬に熱を覚え、一人取り乱した。


(ば、馬鹿みたい、馬鹿みたいだわ、わたくしったら。あの程度の賛美なら、今までだって幾度となく言われてきたことじゃないの)


 そう思うのだがどうしようもない。

 部屋に戻ってからもあの時の光景は頭から離れることはなく、何度も早く寝ようと目をつぶる彼女を嘲笑うかのように、シルヴィアの意識を決して離そうとはしなかった。

 彼女がこんな薄暗い内から目覚めているのにだって、勿論理由がある。

 言わずもがな、寝てないからだ。

 結局、彼女は部屋へと戻ってからベッドの中に入って一睡も、微睡むことすら出来なかった。

 始終湖の幻惑に眠りを邪魔されて、同じ記憶を反芻することばかりに時間を費やしていたのである。


「起きるのです、ネリー!」


 シルヴィアは腹立ち紛れに侍女の布団を引き剥がしてやった。だが、声はあくまでも小さめだ。大騒ぎをして、ダイアナ達までをも起こすのはまずい。

 もしも、シルヴィアの顔が以前のものへと戻っているのなら、こんなところに長居は無用である。魔女一行が起き出す前に逃げ出す、至極当然の結果であろう。


「はひっ、ひ、ひめ……さま?」

 ネリーがようやくシルヴィアの剣幕に気がついて、起き上がる気になったらしい。彼女は目をこすりこすり、慌てた素振りで体を起こしてきた。

「ど、どうなさった……んですか……?」

 とろんとした腫れぼったい目で主に向き直るネリーに、シルヴィアは顔を寄せる。

 まるで幼い子供のような薄桃色の頬をした侍女は、シルヴィアの不機嫌な表情を気にする様子もない。

 どうやら、気持ちよく熟睡していたのには間違いない。声を出しながらも、今にも眠りこけてしまいそうな雰囲気すらある。

 シルヴィアは引きつりそうなこめかみを押さえつつ、低い声を出した。

「わたくしの顔を見て、どうなっているか答えなさい」

「え、ええっ?」

「わたくし……、どこか変わっていないかしら?」

 シルヴィアの胸をどくどくと鼓動が刻んでいく。激しい緊張と期待で今にも倒れてしまいそうだ。

(さあ、言いなさい。美しさが戻ってきているでしょう?)

「えっと……」

 ネリーは目をしろくろさせて、はっきりとしない声を出すばかりだった。どこかおどおどとした様子の侍女に、シルヴィアは辛抱強く笑顔を向ける。

「遠慮はいらないわ、正直に答えて」

 ネリーは開けきらない目をしばしばと動かし、シルヴィアを凝視した。ように見えた。

「……姫様」

「なあに?」

「あの、く、暗すぎて……よくは見えないんですけど……」

「ネリー!」

 遂に堪忍袋の尾が切れたシルヴィアが声を張り上げて叫ぶ。

「わたくしはここよ、よお〜く見なさい!」

 更に近づいてきた主を見上げ、ネリーの目が見る見るうちに広がっていった。


「きぃっーー」

 鼻を膨らませてネリーは金切り声を上げる。


「きぃゃあああぁぁぁぁ!」

「起きたのかい? 入らせてもらうよ」


 ネリーの耳をつんざくような悲鳴と、ダイアナの部屋へと入ってくる足音が聞こえたのは、ほぼ同時のことだった。




   ***




(いったい、どういうことなのかしら?)

 

 シルヴィアはどうにも解せない思いで、納戸の中で足を止めた。

 目の前には薪が置かれた山がある。彼女は魔女から薪を取ってくるよう仕事を言い渡され、こんな場所までのこのことやって来たのだった。

 ネリーは別の仕事を宛てがわれており、側にはいない。ダイアナと共に、朝食の支度へとかり出されていたのだ。

 残りの二人、少年と青年については姿も見ていないので、起きているのか、はたまたいまだ眠っているのか、それさえシルヴィアには分からなかった。


 あの騒動の後、魔女の手際は素早いものだった。

 ダイアナは、きゃあきゃあとうるさく喚くネリーを一蹴し、呆然と突っ立ったままのシルヴィアに衣服を投げつけ命じてきた。

「いいかい、それらを着て今すぐ部屋から出てくるんだ。あんたが今着ているドレスなんか、作業をするのに邪魔でしかないからね」

 彼女は悠然とシルヴィアを見下ろして笑う。美しく染色したかのような赤い唇と威圧するかのような豊かな胸元が、シルヴィアの自尊心をことごとく粉砕した。

「作業?」

 思わず後退りして怯みながらもシルヴィアが聞き返せば、ニヤリと品のない笑みが返ってくる。

「そうだよ、姫さん。あんた、ここにタダで置いてもらえるとでも思っていたのかい? 図々しいね、うちは働かざる者食うべからずなんだ。だからあんたにも、それからそっちのちっこい小娘にも、これからどんどん働いてもらうことになるからね。分かったかい?」

「は、働くって、こんな暗い内からなの?」

 外の景色を指し示し、シルヴィアが横暴だと反論すると、ダイアナはにべもなくそれを却下した。

「もうすぐ夜明けだよ、少しも早くはないね。それに姫さん、あんたとっくに起きてたみたいじゃないか。随分働き者なこった。さ、もういいだろう、急いで出てきておくれよ」

 にやにやと笑うダイアナが消えた扉に、シルヴィアは渡された服をこれ見よがしに投げつけてやった。だが、それで事態が好転する筈もない。

 結局彼女は、使い古されたようなかろうじて女物だと言える薄汚い作業着に、着替えるしか方法はなかった。

 シルヴィアが四苦八苦して着替え終わる頃には、ネリーはとうに着替えを済ませてしまったのか、主を見て申し訳なさそうに頭を下げてきた。

「姫様、先程は申し訳ございませんでした。わたし……、すっかり姫様のお顔を忘れてしまっていて……」

「どういうこと?」

「つまり、姫様がお婆さんになっていることを、きれいに忘れてしまっていたんです。ほら、一晩寝ちゃったから記憶が飛んでしまったみたいで。だ、だって昨日はあまりに色々ありましたでしょう? お陰でぐっすり眠れましたもん。怖い夢も見ませんでしたし」

「そう……」

 ネリーはハッとしたように口を引き締め、慌てて言い直す。

「でっ、でも今はすっかり思い出しました。全部思い出しましたから、姫様のお顔にいちいち驚くこともありませんわ」

 へらへらと調子よく笑う侍女をシルヴィアは呆れて一瞥すると、踵を返して寝室から出た。


 それからずっと考えている。


 着替えを済ませてダイアナの前へ行けば「遅い」と怒鳴られ、すぐさま井戸に水汲みに行かされた時も。

 食事の支度をするネリーに比べれば、ただの雑用係としか思えぬ用事ばかり押し付けられていた時も。


 どうして、自分の顔はまた逆戻りしてしまったのか。

 それとも、あれは夜の森が見せた、一瞬の儚い夢だったのだろうか。


 しかし、いくら頭を捻って考えてみても、その答えは何一つ浮かんではこなかったのだ。




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