第8話 湖での邂逅
「お前は誰だ……?」
見知らぬ男が口を開く。
月明かりを浴びて艶々と輝く黒髪と、それを目の中にはめ込んだかのような鳥の濡れ羽色をした瞳。この地では珍しい色彩を両方ともその身に纏う青年は、奇妙な生き物を目にしたとでも言わんばかりに、シルヴィアを正面から見据え低い声を落としてきた。
「わ、わたくし……は」
彼女はその場から一歩も動けなくなり、男に答える余裕すらなくなっていた。
ただただ目の前にいる青年の美しさに、息もつけず圧倒されるしかなかったのだ。
濡れた髪からこぼれ落ちる一滴の雫や、眠る草木を照らす淡い月の光でさえ、青年を引き立てる装飾品の一つでしかない。こんなにも、まるで神に愛されたような肉体を持つ男を、シルヴィアは今まで見たことがなかった。数多くの国を訪れ多くの人の目に触れてきた筈の彼女が、初めて目にする衝撃だった。
「なんだ、随分気取った話し方をするんだな」
いつまで待っても続きを口にしない彼女にじれたのか、シルヴィアのこぼしたわずかな言葉を捉えて、男は表情を和らげる。
すると、勇ましく精悍な印象だった顔立ちが、思いのほか柔らかく幼く見えた。
「い、いえ」
それでようやくシルヴィアも、我に返ることが出来たのだ。
自分の置かれた状況が手に取るように分かってくると、彼女は堪えきれない恐怖を感じていた。
なにしろ、今の彼女は若い娘ではない。恐ろしい魔女と同じ顔を持つ、醜い老婆でしかないのだ。確かに体の方は以前のものと変わりはないが、しかし人が一番に目を向ける部分である顔が、世にも恐ろしい形相となっている。
とにかくここは今すぐにでも見咎められないよう、素早く引き揚げなくてはならないだろう。
(早く、早くなんとかしなければ……)
シルヴィアは濡れた髪の毛でさり気なく面を隠し俯き加減になると、震えながら声を絞り出した。
「気取ってなど。ただ、わたしは……」
「何故、顔を隠す?」
しかし、青年はシルヴィアの行動を不思議がり、彼女の方へと近づいて来た。思わぬ行動に出た相手に、シルヴィアは酷く慌ててうろたえた。
「こ、来ないで」
急いで両腕を上げ、顔を覗かれないよう彼女は必死になって防いだ。
いかに気位の高い尊大な姫だとて、今の状況で若い男の前に立つ勇気はない。ましてや目前の青年のように、並外れた容姿を持つ異性の前に出られる筈もなかった。
「お願い、ち、近寄らないで」
悲鳴のような声を上げ、動かない足を懸命にばたつかせ、苦労して体の向きを変えた彼女を男は悲痛な声で引き止めた。
「待ってくれ!」
伸ばされた大きな手が、シルヴィアの細い腕を掴まえる。
「お願いだ、いかないでくれ」
妙に熱を感じさせる声が、彼女から逃げ出そうとする気力を呆気なく奪った。
(な、何……?)
青年は足を止めたシルヴィアを強引に引き寄せ、彼女の前に立ちはだかった。それから、その面差しを覆う前髪を指で掬い取り、顔を隠していた髪の毛をかき分けていく。
「や、やめ……て」
シルヴィアは恐れた。今にもこの青年は、恐怖に歪む表情を見せつけてくるだろう。それは酷い言葉をぶつけられることよりも、自らの自尊心を傷つけるに違いない。
「やはりな」
だが、青年はシルヴィアを見て、ほうと息をついただけであった。
彼の漆黒の瞳は彼女を見て歪むことはなく、そればかりか益々艶やかに輝いていく。
「美しい」
青年はぽつりと言葉を漏らした。
「えっ?」
驚くシルヴィアに柔らかく微笑んで、彼はもう一度言った。
「お前はとても美しいな」
「どういう意味?」
シルヴィアはカッとして大きな声を出す。
心臓の鼓動が激しく内部で騒ぎ立てていた。顔の上に体中の血液が集まっていくのも感じられた。
馬鹿にされたーー。そのことが彼女の気持ちを大きくさせて、根深く巣くっていた恐怖心をいとも簡単に吹き飛ばしていた。
あんなにも他人の目を恐れていたのが嘘のように、それを忘れて堂々と青年を睨みつける。
シルヴィアは不気味な自分の顔をものともせず、キッと目を見開き仁王立ちになって声を張り上げた。
「人をからかうのもいい加減にして。この顔のどこが美しいと言うの?」
あの、世も末だと言ってもおかしくないほどの、醜く崩れた魔女ダイアナと同じ面相を持つ自分が、美しいわけないではないか。
彼女を恐れず逃げなかったことは評価してもいいが、この発言はどうしても許せなかった。
「ーー信じられないな」
怒りで震えるシルヴィアを見て、青年は呆気に取られたようにポツリと呟いた。
「お前、自分の顔を知らないのか? 疑うのなら今すぐ湖面を見てみるがいい。人魚のように美しい女がそこに映っているから」
「えっ?」
湖面を見ろ?
いやに自信たっぷりと断言した男に、シルヴィアは促されるままに水面を見下ろした。
「うそ……」
そこには輝くように白い肌と、長い睫に縁取られた大きな蒼い宝石のような目を見開く、美しい女が映っていた。
そう、彼女が今までずっと共に過ごしてきた見慣れた姿、ネブレシアの宝珠シルヴィアがはっきりと映っていたのだ。
「これ……は、わたく……し……?」
シルヴィアは震える指で、自分の顔を確かめるように触っていく。皺のない肌はつるつると滑りがよく、映っている姿は間違いないと指先に伝えていた。
シルヴィアは目前の青年を見上げ問いかける。
「教えて、あなたの目にもわたくしはこのように見えているの?」
男は噴き出しそうになりながら答えた。
「さっきからそう言ってるだろう。なんだ、自分の顔のことなのに自信がないのか?」
「いいえ、いいえ……」
これはどういうことなのか。魔女の魔法は何故解けてしまったのだろう。
確かダイアナは、シルヴィアと皇子との婚約が解消されれば顔も元に戻ると言っていた。だが、それより前にシルヴィアは以前の自分を取り戻している。どうしてなのだろうか。
「おい、どうした」
考え込むシルヴィアを不審がり、男が彼女を覗き込んできた。
「え、いえ、あの……」
つまりこれは、あの魔女に騙されたということを物語っているのではないか? おそらく魔女の魔法はそんなに強力なものではなかったのだろう。だから時間がくれば自然と解けてしまうものだったのだ。
「何でも、ないわ……」
そう考えれば、不可解な魔女の行動も全て辻褄が合う。
面倒な存在であるシルヴィア達を、わざわざ自分の住処にまで連れ帰ったことも、夜は部屋から出るなときつく命じてきて、早くからかび臭い一室に無理やり閉じ込めたことも、全て辻褄が合うのだ。
「何だ、そういうこと」
シルヴィアはおかしくなって思わず笑い出していた。
魔女は彼女を意のままに操ろうとした。そのため、一見派手な魔法をかけて恐怖のどん底に突き落としてきたが、それは心配するほどのものではなかったのだ。
「いやだ、わたくしったら、すっかり騙されてしまったわ」
クスクスと笑い続ける彼女を、青年が訝しんで見つめてくる。
「また、気取った話し方をしているな。いったいお前は誰なんだ?」
「わた……し?」
シルヴィアはハッとして男から身を引いた。
そうだった。すっかり気を緩め忘れていたが、この場にはこの男がいたのである。
つい本来の顔を取り戻せたことを喜ぶあまり、この青年の存在を忘れてしまっていた。
「わたしは……」
シルヴィアでさえ目を奪われてしまう青年は、どうやらネブレシアの宝珠を知らないらしく彼女の正体に見当もつけてないようだったが、それは不幸中の幸いだと言えた。
何故なら帝国の皇子との結婚を控えた自分が、こんなところで別の男に肌を晒すなどとんでもないことだったからだ。
「そうよ、肌を晒すなんて……、そう肌……、肌……、えっ、肌ぁ? きゃああぁぁ」
シルヴィアは仰天してじゃぶんと水に潜る。
(いやだ、わたくしったら裸じゃないの!)
「きゃあ、きゃあ、いやらしい! あっちを向いてよ!」
なんてことだろう。いったいどれぐらい、男の前であられもない姿を晒していたのだろうか。
羞恥と苦しさで派手な水音を立てるシルヴィアから、青年も気まずげに顔を逸らし背中を向ける。
「すまなかった、気づかなくて」
シルヴィアは真っ赤な顔で男を怒鳴りつけた。
「そ、そうやってずっと、あっちを向いていてよね! も、もしも、ちらりとでもこちらを向いたら、絶対に、絶対に許しませんからねっ」
急いで陸へと足を向けたシルヴィアを、しかし、青年は約束を違え振り向いて腕を掴まえる。
「待ってくれ!」
「きゃっ、ちょっと、何をするの!」
目を剥く彼女に苦しげな表情の男が見えた。
「信じてくれないか。お前を見ていたのは、決して邪な気持ちではなかったんだ。本当だ」
「分かったわ、分かったから、は、離してよ」
「生きてる人間だとは思わなかった。月の下のお前があまりに幻想的で綺麗だったから、この世の存在とは違う別の何かかと思ってしまって……、それで思わず見入ってしまったんだ」
「なっ、何を言って」
顔が熱く火照り出す。シルヴィアは自分を引き止める強い輝きを放つ瞳から、目を逸らすことが出来なかった。
「わ、分かったわ。分かったから」
「また、会えるだろうか? 俺は時々夜ここに来ているから」
「て、手を離して……痛いわ」
「嫌だ。また、来ると約束してくれるまで離さない。頼む、また来ると言ってくれ」
青年の潤む瞳が真っすぐにシルヴィアを射抜いていた。その甘い眼差しに、彼女はどう抗っても打ち勝つことは適いそうになかったのだ。
シルヴィアは嘆息して口を開く。
「分かったわ」
仕方ない。手を離してもらえなければ肌も隠せない。これではまた来ると言うしか手がないではないか。
そう、嘘も方便という奴だ。
(だって、この人しつこいんですもの)
「また来ますから、それでいいでしょう?」
「ああ、待ってる」
シルヴィアの思惑など何も知らない青年は、満面の笑みを見せた。少年のように飾り気のない無邪気な笑顔が、彼女の心臓をズキンと酷く痛めつけたことを、彼は少しも気づいてないようだった。
急いで脱ぎ捨てたドレスや下着を拾い森の中へ逃げ込むと、手早く身支度を整えシルヴィアはもう一度湖を振り返った。
いつの間にか、青年は自分も寝床へと戻ってしまったのか、静かな湖面には月の影がぼんやりと浮いてるだけだった。




