第4話 姫の決意
「今の悲鳴は? いかがされた、侍女殿」
突然響いた、空気を振るわすような金切り声に驚いて、馬車の外で警護に付いていた騎士が慌てて声をかけて来る。
しかし、侍女のネリーには答えることができなかった。彼女は、絹でできた美しい刺繍の施された手袋をはめた手に、無理やり口を塞がれていたからだ。
ネリーの口を塞いだシルヴィアは、さてどうしようかと考える。自分はやんごとなき未婚の姫君である。騎士などに、しかも他国の男などにそうそう気安く声をかけてもいいものか……。
だが、取り次ぎ役のネリーが今は使えない。騎士に不審に思われ馬車の中を検分されては困る。今のシルヴィアは、誰にも顔を見られる訳にはいかないのだから。
彼女はこの危機を、自分でなんとかするしかなかった。
姫は咳払いを一つすると、外の騎士へと話しかけた。
「騎士殿、ご心配には及びませんわ。ネリーは夢を見ると、奇声を発する癖がございますの。本人もこの癖にはとても心を痛めておりますのよ。ですから、お願いでございます。この娘の名誉のためにも、今お聞きになられたことはお忘れいただくとありがたいですわ」
心配しなくても大丈夫なはず。誰もこんなに小さいこと気にしやしない。姫君本人が直接言葉をかけたからといって、立ち所に彼女を疑うことなどいくら何でもしないだろう。
シルヴィアの、まるで雛鳥がさえずるかのような軽やかな声に、騎士が息を飲む気配がした。
「は……、は……、そうでありましたか。か、畏まりました。この件は姫様のお望みのままに取り計らいましょう」
「ありがとう。よろしくお願いします」
「そっ、しょれでは、わっ、わたくしはこりょでっ」
騎士は舌を噛み噛み挨拶を述べると、馬車の側から離れて行った。
可哀想にネブレシアの宝珠に直に声をかけられて、すっかり舞い上がってしまったらしい。外見、実力ともに完璧である筈の帝国騎兵とは、とても思えぬ所業だった。
(ふう……、行ったか)
騎士が立ち去ると、姫は大きく息を吐いた。
どうやら騎士は、特に彼女を不審に思わなかったようだ。取り合えずの危機は脱したとみえる。
シルヴィアは手元へと目をやり、こちらを恨みがましく見つめてくるネリーと目が合った。侍女は彼女の目線が自分にあると気づくや目を逸らし、涙を浮かべて震えている。
自分を取り押さえる者の顔を怖れてはいるようだが、たいした抵抗もせず悲鳴を上げることも止めたようだ。
今の騎士と姫の一連の会話を聞いて、恐ろしい老婆の顔をしているのが、シルヴィア本人だと疑いながらも受け入れ始めているのだろうか。
(こんなに簡単に、この顔をわたくしだと信じられるのも複雑ね……)
だがそうは思いながらも、あの鏡を見たネリーの顔が自分のようにならなくてよかったと、シルヴィアは今更ながら胸を撫で下ろしていた。
さて、時間は少しさかのぼる。
魔女ダイアナが去って、あまりの事態に途方に暮れ呆然としていたシルヴィアは、あることに気がついた。
つまり、彼女の顔が本当に老婆に変わってしまったかを調べる手立てが、あの小さな鏡しかないということにだ。
あの鏡は魔女が持ち込んできた物。信用できる物ではない。もしかしたらーー魔女がシルヴィアとの交渉を有利に運ぶために、それこそ『まやかしの術』をかけていたかもしれないではないか?
彼女の顔は、そもそも老婆になど変わってなかったかもしれないのだ。
「そうよ、そうだわ」
シルヴィアは馬車の中で、嬉々として小さな叫び声を上げる。
この考えに彼女は飛びついた。年老いた魔女の口車に乗せられて、酷い悪夢を見せられていたに違いないと思えた。
そうとなったらすぐにでも顔を確認したいのだが、それを確かめるにはネリーを起こして聞き出すしか方法がない。
駄目だ。危険が大きすぎる。もし、もしも、本当にシルヴィアの顔が変わっていたとしたらどうなるだろう。その場合、臆病なネリーは相当驚いて大騒ぎするに決まっている。
それはまずい。外の連中に怪しまれる。が、かといってあの連中に頼むなど言語道断。帝国の者には彼女の顔が以前と同じであると証明されるまでは、素顔を晒すわけにはいかなかった。
やはりネリーしかいないのである。
(どうしたら、いいのかしらーー)
シルヴィアは馬車の中を何かないかと視線をさ迷わせ、窓に取りつけられたカーテンに目がいった。カーテンの陰に頭を隠せば、取り合えずは、目を開けたネリーにすぐさま顔を見られることはない筈だ。
簡単だが、これでなんとかなるだろう。
姫はカーテンを使って顔を隠すと、侍女を起こすために声を出した。
「ネリー、起きなさい!」
「う……ん、美味し……そう」
ネリーは口からヨダレらしきものを垂らし、寝言を呟く。
何の夢を見ているのかわからないが随分幸せそうだ。主の一大事にも気づかずなんとのん気なことか。
シルヴィアはついつい彼女に苛ついた。
「ネリー!」
姫の声に反応するように侍女の体が揺れた。笑顔だった表情がみるみる内に青くなっていく。
カーテンの陰からその様子を垣間見ていたシルヴィアは、段々不愉快になってきた。
まるでシルヴィアの声を怖れているかのような、ネリーの怯えた顔つきがいじましい。いまだ目を覚まさず寝ているというのに、無意識下では彼女に対してこのような感情を抱いていたというのか。
「ネリー!」
そして何度目かの呼び掛けに侍女は、はっきりと叫んだ。
「姫様ぁ!」
その顔は、泣き出しそうなほどビクビクとしていた。
(まあこの子ったら、わたくしを何だと思っているの?)
その時、シルヴィアの胸に暗い企みが浮かんでしまったのだ。歪んだ心の隙間に紛れ込んできたように、何かが囁いてくる。
この侍女に魔女の鏡を見せたらどうなるか、知りたくはないか?
お前のように顔が変わるやもしれぬぞ。確かめてみたいだろう。
何故、お前一人がこんな目にあうのだ? お前は大陸一の美姫。こんな醜い顔になるべき人間ではない。
だがこの侍女はただの平凡な顔立ちの上に、主を放って惰眠を貪っていたのだから、文句は言えないはず。
さあ、命じるんだ。鏡を見ろと。
そしてシルヴィアは、心の声に操られたように目が覚めたネリーに、鏡を見るよう口にしてしまったのである。
その結果、結局ネリーの顔には変化はなかった。侍女は姫と同じ目にはならなかったのだ。
シルヴィアは後で後悔するような事態にならずに済み、心の底から安堵した。
「ネリー、わたくしのことがわかる?」
シルヴィアの問いに侍女は小さく頷いた。まだ顔色はすぐれないが、かなり落ち着いてきたように見える。
そんなネリーの様子に、彼女はホッと息をついた。この感じなら、もう大騒ぎすることはなさそうだ。
だがまだ、侍女の口元から手を離すことはできない。とにかく事情を聞かせて、それからである。
けれど、その前に姫にはどうしても確認したいことがあった。
「突然あなたを驚かせて悪かったわ。これにはちょっとした理由があるの、それを今から説明するわ。ーーでもその前に質問させて」
わざわざ聞かなくてもわかるような気はする。ネリーのオドオドとした態度に、答えは全て表れている。だが姫は、はっきりと知りたかったのだ。でないと前へ進めない。
「教えて、わたくしの顔は老婆のように見えて?」
ネリーは目を見開いて、それから再び小さく頷いた。
「そう……」
やはり、あの魔女のように酷い顔になってしまったのか。
絶望しか浮かんでこないような現実だが、打ちひしがれている場合ではなかった。じきに休憩を取る町に到着して騎士達の前へ出て行かねばならないのだ。
シルヴィアは表情を硬くすると、ネリーの目を見つめ口を開く。しかしその顔は、やはりどう見ても薄気味悪い老婆でしかなく、ネリーの顔色はますます青白くなっていくのだった。
「ーーでは姫様は、あの汚い老婆に顔を変えられてしまったのですか?」
ネリーはすっとんきょうな声を上げて、口をへの字に曲げた。
彼女は凝った肩をほぐすように片手で揉みながら、寛いだ様子でシルヴィアを見上げる。そして主の冷たい視線に気づくと、しまったとでも言うように表情を変えあらぬ方向に目をやった。あれほど怖がっていた筈が、いつの間にか普段の自分に戻っている。
「あ、あの……、姫様、い、今のは……」
「ええ、そうよネリー、お前の言う通りだわ。それにしてもこのわたくしの顔を、汚い老婆と評するなんて……」
ネリーの立ち直りの早さに、シルヴィアは呆れながら答えた。
「も、申し訳ございませんっ!」
「いいわよ、事実だから」
姫はフンと拗ねて、慌てて頭を下げるネリーから顔を背けた。だが、その横顔はやはり汚い、もとい綺麗とは言いがたい老婆であった。
「とにかく、そんなことは今はいいのよ。それよりも今後どうするかを考えなくては」
「今後でございますか?」
「お前、眠りこける前に聞いたでしょう? 帝国の騎士が、もうじき休憩を取ると言っていたではないの。わたくしはこの顔で、あの連中の前には出られないわ。そうでしょう?」
「ああ、そう言えば……、そんなことがございましたわね」
とぼけたことを言う彼女に、シルヴィアの口調は強くなる。
「しっかりしてよ。今はお前だけが頼りなのよ」
「……姫様……」
ネリーは涙ぐんだのか、目頭を押さえて主を見つめていた。シルヴィアの言葉にいたく感動しているようだった。
姫は顔をしかめてフンとうそぶく。あまりにおどろおどろしい顔をしているためわかりにくかったが、どうも照れたらしく耳まで赤くしている。
ただでさえプライドが高く、弱味を見せるのが嫌いなシルヴィア。人相が変わり、その表情はますます読みにくいものになっていた。だがネリーは、気にするふうもなく微笑んでいる。
静かになった馬車の中に、外の音が漏れ聞こえてきた。
今まで聞こえてこなかった人々の声や、騒がしい生活の音がしてくる。
「町中に入ったみたいですわ」
ネリーが窓から外の様子をこっそりと窺い、シルヴィアに耳打ちした。
「そう、とうとう着いたのね」
侍女の言葉に姫は頷く。
ここはどこだろう? ザラハムを出てかなりの時間、馬車に揺られていた。おそらく国境は越えたので、帝国内の町のいずれかだろう。帝都まではあと少しの距離であろうが、姫達の体を気遣って騎士達は休憩を申し出てくれたのである。わざわざ宿まで取って。
大変ありがたいことだが、しかしその気遣いが今は仇となっていた。
もう、時間の問題だ。いずれ馬車が止まり騎士がやって来る。
どうすればいい? 何も良案が浮かんでこない。
「姫様、いかがいたしましょう……」
ネリーが不安げに呟いた拍子に、馬車が大きく揺れて止まった。
馬車が止まると、周囲のざわめきは一段と激しくなった。
無理もない。小さな町に、そうそうたる帝国騎兵の一団と立派な馬車が現れたのだ。この町に住む民は、きらびやかな集団の登場に興味津々になっているはず。
馬車の中にいる人物について、口々に噂しているのがシルヴィア達の耳にも届いてきた。
いよいよもって絶体絶命だ。
「姫様……」
「ネリー」
姫と侍女が寄り添って体を固くしていると、外から声がかけられる。
騎士の代表がやって来たのだ。
「姫様、侍女殿。ようやく宿に到着致しました。長旅でお疲れでございましょう。どうぞお出になり、ごゆっくりとご休憩をお取りになって下さい」
涼やかな声で騎士はそう告げると、馬車の扉に手をかけゆっくりと開け始めた。




