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第3話 侍女ネリー

 

 ふわふわの地面が続く森の中を、侍女のネリーは浮かれた気分で歩いていた。

 

 ここはどこだろう。彼女は辺りをキョロキョロと見回してみる。

 だが、さっぱり記憶にない場所だ。

「変ね、わたしってば何をしていたのかしら」

 直前の記憶を思い出そうと頭をひねってみるが、全く思い出せない。

 普通の状況だったら半狂乱になっていたことだったろう。なんせ自分でも気づかない内に見覚えのない場所を歩いているのだから、不安に襲われない方がおかしい。

 だが、この時何故か彼女は平気だった。むしろ気分は最高だったのだ。

 

 暫く歩くと前方に、色とりどりの目にも鮮やかな建物が見えてきた。

 

(お菓子の家だわ!)

 

 見た瞬間、それが何なのか分かった。実に不思議なことだがすぐに理解できたのだ。

 歌い出したいほどに機嫌をよくして近寄ると、それは本当にお菓子で出来た家だった。

 チョコレートやクッキーやビスケット。生クリームたっぷりのケーキなどで、屋根や壁がユニークな形で造られている。

 その姿はやはり、家というより巨大なお菓子の山だ。

 こんなに豪華なお菓子が目の前にふんだんにある様は、ザラハムのお城ではついぞ目にしたことはなかった。

 

(ケチなお城だったものね。わたし達へのオコボレは、いつも固いビスケットくらいだったし……)

 

 だがそれも仕方なかったのだ。王や姫だって、その固いビスケットしか口にしていない。

 ついでに言えばそのビスケットは、忙しい侍女に成り代わり執務や雑事の間に、武骨な手つきで王自らが作っていたのだから、美味しいものなど望める筈もなかったのだが。

 

 ネリーは、お菓子の家を見ているうちにお腹が空いていることに気づく。

 彼女の前に建つ家には誰も住んでいる様子はない。当然だ。こんな不安定な物に住める人間などいやしないだろう。あくまでこれは鑑賞用か、あるいは食事用ではないのか?

 ネリーはチラリと辺りに視線を走らせた。やはり人の姿はない。今は誰もいないのだ。少しぐらい味見をしたって分かりはしないだろう。

「ようし、いただいちゃおう」

 彼女は元気よく声を出すと口を大きく開けて、手近にあるチョコレートで出来た窓らしき物に手をかけた。

 

「ネリー」

 

 その時誰かの呼ぶ声がする。

 首を振って周囲を見回すが誰もいない。彼女は気のせいだと思い直して再び口を開ける。

「ネリー!」

 今度は先ほどよりはっきりと聞こえた。よく知る人物の声に似ている。嫌な予感がネリーの胸に広がった。

「ネリー、いい加減に起きなさい!」

 苛立つような声が、人の気配すらしない家の周りに大きく響き、彼女はすっかり怖くなってきた。

「ネリー!」

 不安げに辺りを窺うネリーの前で、お菓子の家は唐突に大きな人間の顔に変わった。

 それは彼女の身近にいる人物。

 意志の強さを感じさせ、見る者を惹き付けるよう輝く藍色の瞳。雪のように白く透き通る肌に、計算されたかのように完璧な配列で目と鼻があり、口元には薔薇の蕾のように赤い唇が誘うように妖しく開く。


 大陸一の美姫、ーーネブレシアの宝珠。彼女が仕えるザラハムの、美しい姫君シルヴィアだ。

 シルヴィアの顔が怒りをあらわにネリーを睨んでいた。はっきり言ってものすごく怖い。

 

「姫様ぁ!」

 

 ネリーは巨大な顔のシルヴィアに向かって、大声を出した。

 

 

 

  ***

 

 

 

「ひ、ひめさまっ!」

 ネリーは勢いよく目を開けて飛び起きた。

 

 慌てて周囲を見回すと揺れる馬車の中だ。帝国から迎えのために寄越された豪華な広めの四輪馬車。

 そうだった。帝国の騎士達と姫の婚約者なる第五皇子に招かれて、かの国へと向かう道中だったのだ。

 と言うことは、あのお菓子の家は夢だったのか。どうりで、通常では考えられない超展開だった。

 彼女はお尻の下に広がるそのフカフカの座席に寝転がり、つい今しがたまで眠っていたことに気づく。

 

(あ〜あ、どうせなら食べてから起きたかったわ。美味しそうだったのにな)

 

 城でも見たことがない贅沢なお菓子を食べ損ねて、がっかりしながら寝とぼけた頭を振っていると、前方から声が聞こえてきた。

 

「やっと目を覚ましたようね」

 

 冷ややかに咎めるシルヴィアの声に、ネリーは文字どおり飛び跳ねた。

「ひ、姫様。申し訳ございません。居眠りなどしてしまいまして」

「いいのよ、それは」

 シルヴィアの声は幾分柔らかくなる。ネリーは主がそれほど怒ってないとみて、ホッと息を吐いた。

 彼女はすっかり忘れてしまっているようだが、のんきに居眠りをしていた訳ではない。老婆の登場にショックを受け、今まで気を失っていただけなのだ。まあ後半は、そのまま眠っていたようだが。

 ネリーは気絶をしていたので、勿論老婆の正体は今も知らないままだった。

 彼女は顔を上げて、前の座席に座るシルヴィアの様子に違和感を感じた。

 先ほどは取り乱していたので気づかなかったが、シルヴィアは車窓に取り付けられた金糸の縁取りが豪華な赤いカーテンで、顔を覆い隠して座っている。

 何故こんな、おかしなことをしているのだろう。

「姫様、その格好は? いったいどうされましたか」

「ネリー、お前に頼みがあるの」

 しかしシルヴィアはネリーの疑問には答えることなく、彼女の声を無視するかのごとく命令してきた。

「は……い……」

 主の態度に解せない思いを抱いたが、ネリーはただの侍女である。シルヴィアからカーテンを剥ぎ取ったり、「何、馬鹿なことをしているの」と叱りつける訳にもいかない。

 姫は馬車の中でも不満たらたらのようだった。きっとストレスがたまってしまい、意味不明な行動に出ているのだろう。

 彼女は主の心境をそう結論づけ、シルヴィアが現在しでかしている不可解な点については見て見ぬ振りを決めた。

「何でございましょうか?」

「わたくしの足元に落ちている鏡があるでしょう」

 シルヴィアが足元を指で指し示す。そこには確かに小さな鏡が落ちていた。

「はい、落ちていますけれど」

「それを拾ってくれないかしら」

「この鏡をですか?」

 ネリーが鏡を拾うため身を屈めると、姫が驚くほど不自然に体をよじった。彼女は不審に思い主の方へ視線を寄越す。

 シルヴィアは明らかにおかしかった。肩をブルブルと振るわせて何かに怯えているみたいだ。

 ネリーは手元の鏡を見た。何の変哲もない地味な鏡。これを拾うため体を動かしてからだ、姫の様子がおかしくなったのは。いや、その前から変は変だったが。

 だがこんな地味な、あまり綺麗とは言えない汚い鏡など、主は持っていただろうか?

 目覚めてから、訳の分からない不思議なことばかり起こっている。自分の眠っていた間に、いったい何があったのだろう。

「拾いましたけど?」

「そう……」

 シルヴィアは緊張したように体を硬くして姿勢を正した。それからゴクリと喉を鳴らすと低い声で言葉を続ける。

「では、その鏡を見て。何が映っているか教えなさい」

「ええっ?」

 ネリーはびっくりして大声を返した。

 鏡を見て映るもの? そんなもの決まりきっている、自分の顔だ。主は何故そんな下らないことを命令してくるのだろう。

 しかしシルヴィアは、不満の声を上げるネリーに当たり散らすように喚いた。

「いいから早く見るのです!」

「は、はいっ」

 姫のあまりの剣幕に彼女は慌てて鏡を覗き込む。

 果たしてそこに映っていたのは……。

 

「ああっ!」

 ネリーの声から悲鳴のような物が出る。

「どうしたのです!」

 シルヴィアがカーテンの陰から急いで出てきた。そして鏡を持って震えている侍女に向かって、謝るかのように頭を下げる。

「どうしたの? まさかネリー、あなたもなの? わたくしったら何てことを。取り返しのつかないことをしてしまったわ。ああ、ごめんなさい。許してちょうだい!」

 取り乱したように口走る声は、可哀想なくらいか細いものだった。

 

 

 鏡の向こうからネリーの震える声が漏れてきた。


「あ〜あ、こんなところに何やらブツブツができてますわ。嫌ですわね、随分大きなものですわよ、これ……」

 

 ネリーは鏡に映る自分の顔にできた、大きな吹き出物にため息をついた。しかも場所が悪い。鼻の下にあるのだ。こんなところにできるなんて、不恰好で恥ずかしい。

 彼女は鏡から視線を外し主の方へ顔を向けた。

 今姫から、許してちょうだいとかなんとか聞こえてきたような気がする。随分思い詰めた声だった。

 何を勘違いしたのか知らないが、この間の抜けた不細工なブツブツを見せて、主を明るい気分にさせてあげようではないか。思い切り笑うと、気も晴れるのではないか?

 

 ネリーは、シルヴィアのことが嫌いではなかった。

 姫は自分の美しさを鼻にかけて随分高飛車なお姫様だが、意外とさっぱりしたところがあり、ネチネチと侍女達を苛めるような陰険な性格の持ち主ではない。

 口調はきついし好き嫌いがはっきりしていて決して性格がよいとは言えないのだが、不思議と好ましく感じていた。

 彼女は鼻の下にできた吹き出物を指し示し、陽気に声を出す。

 

「姫様、見てくださいよ。この、酷いブツブ……ーー」

 

 顔を上げたネリーは、側に迫っていたシルヴィアとまともに目を合わせた。

 彼女のすぐ目の前に恐ろしい顔をした老婆がいる。 

「きぃっーー」

 

 その後、ネリーの、聞く者の鼓膜を破りかねない甲高い悲鳴が、馬車の外まで響き渡った。




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