第2話 魔女ダイアナ
「お前はいったい何者なの?」
突然目の前に現れた老婆に、どうかすると怖じけそうになる心を奮い起こして、シルヴィアは尊大に尋ねた。
老婆は、彼女の虚勢など容易く見抜いていると言わんばかりにイヤらしく嘲笑う。
そんな馬鹿にでもされたような態度に姫は憤慨しかけるが、相手は正体不明の存在だ。下手に刺激して怒らせるのはまずい。いや、そんなこと以前に何故この場に現れたのか、目的が全く読めなくて気味が悪すぎる。しかも現れ方が普通ではない。
シルヴィアは黙って老婆を観察することにした。
老婆はフードのついた黒いマントと黒いローブという、全身黒づくめの装束を身に纏っていた。
フードから覗くのは真っ白な糸のように張りがない白髪、落ち窪んで生気をなくした限りなく白に近い灰色の目、そして大きくて目立つ鷲鼻と、皺だらけでたるんだ肌には唇のところに醜悪な痘痕まである。
酷く醜い老婆だ。シルヴィアは何かに似ていると思った。
そう、あれに似ている。幼い頃悪いことをするたびに、父に「連れていかれるぞ」と脅されてきた子供を拐って食べるという言い伝えのある古の魔女にそっくりだ。
その魔女には大きな鷲鼻と痘痕があり、大変恐ろしい顔をしているという。
「あんたの考えていること、当ててみせようか?」
「ぎゃっ!」
薄気味悪く笑っていた老婆が突然口を開いて、姫は思わず腰を浮かし悲鳴を上げた。あまりに驚いたため、ネブレシアの宝珠とはとても思えぬ品のない声が飛び出た。
老婆は青い顔をした彼女を見てひゃひゃひゃと笑う。
「あたしが怖いんだろう? 姫さんよ」
「こ、怖くなんか……」
「無理すんなって、この顔を見て怯えない人間はいないよ。わざわざこんな顔をしてるのも、そのためなのさ」
「……なんですって?」
「おや、余計なことを話しちまった」
老婆は肩をすくめると、おどけたようにふざけた表情を浮かべた。だがやはりその顔には、愛嬌などこれっぽっちも見当たらない。
「あたしがあんたに会いに来たのは、警告をするためなのさ」
「警告?」
「そうさ、この度の婚約。これをきっぱり断ってほしくてね」
老婆はいとも簡単に言ってのける。
シルヴィアはそのあまりに傍若無人な態度に、老婆を恐れていたことも忘れて食ってかかった。
「なんですって、なんなのよお前は。婚約を断れですって? そんなことできるわけないじゃない。相手は帝国よ? これはね、ザラハムなんて吹けば飛ぶような小国がどうにかできる話じゃないのよ!」
荒々しく息を吐くシルヴィアを、老婆は興味もなさそうに見つめる。
「ふん、そうかい。あくまでも婚約を成立させるというつもりなんだね?」
「お前、耳は大丈夫? 年を取りすぎて聞こえが悪くなったのかしら。この婚約はね、わたくしの一存ではどうにもならない事態だと言ってるの。今さら破談になどできやしないのよ」
そうだ、できることならとっくにしている。シルヴィアとて、帝国などと大層な国と縁など結びたいわけではないのだから。
どうせ誰かと結婚しなければならないなら、彼女は自分を大切にしてくれる男としたかった。
勿論、彼女の美貌と釣り合う外見を持つ人物が望ましいが、それは一番の理由ではない。
そしてできれば相手は、こちらが気を使わなければならない、帝国のような大国の皇子ではない方がいいに決まっているのだ。
(わたくしは、わたくしの方が大事にされたいの。夫に一生かしづかれたいのよ。だってわたくしはネブレシアの宝珠なのよ? このわたくしの方が夫の顔色を見なければならないなんて、絶対嫌よ)
「全く呆れた姫さんだ。本当にあんた達若い娘ときたら、ちょっと誉められるとすぐに図に乗る愚かな生き物だね。それで大きな勘違いを平気でしでかすんだから、救いようがないよ」
老婆はシルヴィアの心の内をまるで読んだかのように、醜い顔を更に歪めて皮肉を口にすると笑った。
「わたくしの耳はおかしくなったのかしら。今わたくしが勘違いをしているとか聞こえてきたのだけど」
「おや、とぼける気かい? だってそうだろ。少しばかり男どもがちやほやしてくれたからと言って、それでお前さんの人間としての価値が上がったわけじゃない。それなのにそんなことにも気づかないで、随分ご立派な鼻っ柱を披露しているじゃないか。あのね、姫さん。目上の人間にはいつだってそれなりに敬意を払わなきゃいけないんだよ。たとえあんたが、ネブレシアの宝珠と言われている有名な美姫だとしても関係ない。自分より上の人間を見下すようなその態度は、ちょっとまずいんじゃあないかね?」
「わたくしだって勿論、敬意を払うべき方には礼を尽くしておりますのよ。けれども今、この馬車の中のどこに、わたくしより上の方がいらして?」
老婆はニヤリとして自分を指差す。
「ちゃんといるだろ、あたしだよ」
「お前が?」
シルヴィアの顔色は真っ青になった。この老婆はいったい何をほざいているのだろう。
目上だと? この汚い老婆のどこが、彼女より上に属する者だと言うのだろうか。
シルヴィアは小国とはいえ一国の王女。立派な王族の一人である。
たとえ少ない民と少ない領土しかなくとも、たとえ国許では王や姫自ら、侍女や侍従の手が回らない雑事を分担してこなしていたとしても、一国の王女には違いないのだ。
王女という身分は、他国へ赴けば貴賓として最高のもてなしを受けることができる。それは相手が帝国だとて関係ない。王族とはそういうものだからだ。つまり彼女はその立場を公に認められた、貴重な人間の一人なのだ。
それなのにーー、その彼女より敬われる身の上であると、もしかしてこの老婆は本気で口にしているのだろうか?
この醜いだけが異様に目を引く、不気味な老婆が?
ザラハムの王女であり、そしていずれは帝国から夫を迎え、皇帝が義父になる予定のシルヴィアより位が上?
「何を言ってるの? お前がわたくしより尊い身分だと?」
彼女はおかしくなって噴き出した。老婆の話す内容があまりに滑稽で、恐怖心など消えてしまっていた。
しかし老婆は、シルヴィアの小馬鹿にしたような態度を見ても不機嫌な様子すら浮かべない。相変わらず気味の悪い笑顔でニヤニヤとしているだけだ。
(なんなのよ、気持ちが悪い)
「あたしがあんたより徳が高い理由は沢山ある。まず長生きをしている。長い人生経験を積んだ者は、それより短い人生しか歩いてない者より数段優れている。当たり前のことだ」
「そんなことで……」
「次に、あんたができないような不思議な力を身につけている。この力はいくら帝国の皇帝様だって、かないやしない。あたしの前では無力なただの人間の一人だ」
「お前、まさか……」
震えるシルヴィアの目の前で、老婆は舌舐めずりでもするかのように下卑た笑いを見せた。しわくちゃの唇の中から尖った犬歯が光って見え、シルヴィアの心臓は目の前の老婆に鷲掴みにされたかのように、鋭い痛みとともに小さくなる。
彼女は我知らず呟きを漏らした。
まさか、まさかそんな、まさか……。
「そうさ、あたしは魔女。魔女ダイアナさ。あんたも子供の頃聞いたことがあるだろう? 子供を拐って食べる恐ろしい魔女の話を。あれはあたしのことなのさ」
「う、嘘よ!」
魔女、ダイアナだと?
彼女は取り乱して叫んだ。恐怖で歯の根が合わない。ガチガチと嫌な音を立てて、耳障りなくらい鳴り響いている。
「姫様、いかがされました?」
外にいる警護の騎士が、馬車に近づいて声をかけてきた。シルヴィアは助けを呼ぼうと身を乗り出すが、何も言葉が出て来ない。まるで見えない力に操られたように、唸り声さえ喉から出て来ないのだ。
「なんでもございませんわ。姫様はただいまお休みになられていらっしゃいます。夢をご覧になられてらっしゃるのでしょう」
「そうでございましたか、それは失礼いたしました」
魔女ダイアナがネリーの声で代わりに答えると、騎士は安心したように去って行った。
「な……、な……にを」
騎士がいなくなると、シルヴィアの口から吐息とともにようやく声が出てくる。
ダイアナが面白そうに彼女を見ていた。間違いない。この老婆が彼女の声を奪っていたのだ。
「な、何が、狙いなの? 警告ってわたくしをどうする気なの。卑怯者」
シルヴィアは震えながら、ようよう声を絞り出す。
ダイアナは意外だとでもいうように目を見開くと、笑い声を上げた。
「おや、お前さん。案外根性あるじゃないか。どうやら、単なる深窓の姫君とは違うみたいだね。あたしが怖くないのかい?」
そう、シルヴィアは、決して深窓の姫君などではなかった。勿論外見上は誰よりもたおやかな姫の中の姫だが、内実は違う。彼女は、かなり型破りな性格の持ち主だった。
田舎育ちのお転婆娘。
子供の頃の姫は、日に焼けた痩せっぽちの、まるで猿のように野山を駆け回る元気な少女だったのだ。
彼女が現在の、美姫としての称賛を一身に受ける身の上になれたのも、元々の美しさもあったのだろうが、たゆまぬ努力と類いまれな根性のお陰なのである。
「こ、怖くなんかないわ。どうしてこのわたくしが、お前など恐れなくてはならないの。馬鹿にしないでちょうだい」
しかしその根性は、今にも折れそうだった。残されたほんの少しの負けん気だけで、彼女は魔女に対峙している。本当は怖くて怖くてたまらない。
だが天まで届くほどのプライドが、その高さゆえの気力で、崩れそうな精神をなんとか支えていたのだ。
魔女はその張りぼての演技に、ちゃっかりと乗っかってきた。
「全く鼻持ちならない姫さんだね。あんたにあたしが大事なことを教えてやろう。目上の者を敬わないとどうなるかを。それにあんたのその美しさだって永遠のものなんかじゃないってことを。そうさ、明日にもどうなるか分からない儚いものだと言うことをね」
「な……、何を言ってるの? このわたくしの美しさは未来永劫わたくしのものよ。何故ならわたくしはネブレシアの宝珠で……」
シルヴィアの声が弱々しく途切れがちになってくる。最後の気力は、呆気なく切れてしまいそうになっていた。
魔女は彼女の不安を嘲笑うかのように、唇をいびつに曲げると懐から鏡を取り出した。
「おやそうかい。だったらこの鏡を覗いてみるがいい。自慢の美しい顔が映っているだろうかね?」
「な、なんですって……」
シルヴィアは魔女が渡してきた小さな鏡を恐々受け取った。受け取らねばいいのにと思うのだが、体が意志に反して勝手に動いていくのだ。
そして、死の淵でも覗き込むかのように躊躇いながらも、手にした鏡に視線を落とす。
「それを見たらあんたの気も変わるだろう。婚約など、どだい無理な話になるからね。あんたの気が変わる頃にまた会いに来るよ。その時は色好い返事を聞かせておくれよ」
魔女は不吉な言葉を残し消えていった。現れた時同様、音も立てず煙のように存在を消し去った。
魔女が去ったあとには、頭を抱えるようにうずくまるシルヴィアが取り残された。
「嘘でしょう? なんなのよ、これは」
力をなくした彼女の手から小さな鏡が滑り落ちる。
床へと転がり落ちるつかの間の瞬間、鏡は頭を下げるシルヴィアの素顔を映しとった。
そこに映っていたのは大陸一の美姫と称えられ、ネブレシアの宝珠と人々の憧憬を集める、美しい姫などではなかった。
そこに映っていたのは、
つい今しがたこの馬車から消えるようにいなくなった、魔女ーーダイアナと同じ顔をした醜い老婆だったのである。




