涙
それからしばらくの間、聡次郎と富士子は口もきかずに過ごしていた。腹ただしいのもあるが、何より二人の間が気まずくなってしまっていた。
聡次郎は刀に触れられないいらだちと、それまでの自信がいっぺんに失われた事に意気消沈していた。
「このままじゃ組のお荷物よ。頭に血がのぼるのは自分で何とかしなさい」
富士子に言われた事が頭の隅に引っ掛かっている。だが、具体的にどうすればいいのかが解らない。
冷静になろうにもあの感覚が襲ってくる限り、自分に自信が持てないのだ。
誰かに……ハルに相談したいのは山々だが、この間の事もあってどうも素直になりにくい。
聡次郎は悶々とした日々を送った。
それでもひと月もたつと、富士子と口を利かずにいるのも疲れて来た。いい加減あやまったほうがいいかもしれない。そう思って聡次郎は学校帰りの富士子を捕まえる事にした。
口を開けば喧嘩になるかもしれないが、今の気まずいままでいるよりはずっといい。向こうから謝らないかと思ったが、あの頑固者が簡単に折れるとも思えない。それにあの時は言いすぎたとも思うし。
女の頑固さは始末に負えないな。
そう思いながらも、聡次郎は組の近くで富士子の帰りを待っていた。
通りの向こうに富士子の姿が見えた。だが、その反対側に見覚えのある風体の男の姿が目に引っ掛かる。すぐに思い出した。夏の喧嘩で聡次郎がイスを投げつけようとした相手だ。一瞬だがその手の中に光るものが見える。あいつ、富士子を襲う気か!
聡次郎は全力で駆け出した。頭に血がのぼって行くのが解る。こいつただじゃおかないぞ。相手に殴りかかろうとしたその瞬間
「やめろ! 聡次郎」
ハルの声が聞こえて、聡次郎は慌てて手を止めた。男と聡次郎の間にハルが割って入る。ハルが左手を前に出しながら反対のこぶしで相手を殴りつける。男はそのまま逃げていく。
「ハルさん!」
富士子の悲鳴のような声が響く。
ハルの左腕には深々とドスが突き刺さっていた。
ハルを急いで病院に連れていき、治療を受ける。傷は浅くはないが大事には至らなかったらしい。それでも治療に時間がかかるらしく、ハルはなかなか処置室から出てこなかった。
その間富士子はずっと泣いていた。いつまでたってもしゃくりあげている。
「いつまで泣いてるんだよ。そんなに怖かったのか?」
聡次郎が声をかけた。
富士子は黙ってうなずく。
「お前は大丈夫だよ。俺たちみんなが守って……」
「違うの。そんな事じゃない」
泣きながら富士子がさえぎった。
「さっきはあんたやハルさんが、お父さんみたいな事になるかと思った」
富士子の目から一層涙が流れる。
そう言えば富士子の父親、前の組長は刺殺されたって聞いてたっけ。
「ハルさんなら大丈夫さ、あれだけの腕の持ち主だ。俺をかばったんでなけりゃ、とっくにかわしていたはずさ。俺だってめったなことじゃやられない。喧嘩だって負けない」
「そんなの関係無いわよ。お父さんの時もみんな大丈夫だって言ったわ。みんなも身体を張って守ってくれた。さっきのハルさんみたいに」
富士子はまたしゃくりあげる。
「それでもお父さんは、あたしをかばって……」
富士子の言葉が途切れると、今度こそそのまま泣き崩れてしまう。
確かに組長ともなれば、誰より守りは固いはず。先代も用心していたはずだ。にもかかわらず富士子の父親は殺されている。今の話振りだと先代は富士子をかばって刺されたようだ。
さっきハルさんは俺をかばって怪我を負った。あの時、何かの拍子でハルさんが死んでしまっていたら。
聡次郎は背筋がゾクっとした。病院の廊下がやけに寒々しく感じる。
「俺たちみんなが守る」
自分が今言った言葉の軽さに驚く。 富士子が組長の泣き所なのは周知の事実だ。またいつ、今日のような事があっても不思議じゃない。
こいつはいつも、こんな恐怖と闘っていたのか?
再び富士子は口を開く。
「あんた達はこうやって腕ぐらい平気で差し出すのよ。だけどあたしは平気じゃいられない。喧嘩に勝ったからってどうだっていうのよ。最後はただの殺し合いじゃない。あたし達は組を、あんた達が帰る所を守りたいだけなのに」
富士子は涙を流しながら苦しげに話す。
聡次郎は泣き続ける富士子の頭を自分の肩に押しつけた。
「……何すんのよ」
富士子のくぐもった声が聞こえる。
「なんにもしねえよ。こんな時に。さっきは俺も軽率だった。この間も悪かったよ。ぬくぬく暮らしてるなんて言ってさ。俺だってハルさんに守られてたのに」
「いいわよ。本当の事だし。あんた達がいなきゃ、あたしたちは生きていけないんだから」
それから二人は黙ったままだった。富士子は聡次郎の肩で泣き続けていた。
聡次郎は自分が飛び込んだ世界の残酷さを、初めて少し、垣間見た気がした。
それでも富士子はようやく泣きやむと「ありがとう」とだけ言って、肩から離れた。そのままトイレに向かう。顔を洗ってくるのだろう。
気が付くと治療を終えたハルが立っていた。
「ハルさん、すいませんでした」
聡次郎は頭を下げた。
「お前が謝る必要はないよ。今日は富士子さんに優しくしてたじゃないか」
ハルはいつもどおりに笑う。
「見てたんですか?」
「こんな治療にそう、長くはかからないよ。良かったじゃないか、仲直り出来て」
「人が悪いな」
「まあ、そう言うな。このところ二人とも元気が無いから心配していたんだ。またあの元気な口げんかを聞かせてもらわないと」
そう言ってハルは、聡次郎の肩をたたく。
「そう言えば前に富士子さんを落とすと息巻いていたが、落とされたのはどっちだろうな?」
そう言ってハルは戻ってきた富士子に手を振って見せた。
翌日、聡次郎が事務所の掃除に行くと、富士子が先にいて掃除をしていた。
なんでお前がここにいるんだよ
そう聞くのも何だか野暮な気がして、そのまま二人で黙って掃除を続ける。しばらくして聡次郎はようやく声をかけた。
「悪かったな。今までの事も、この間の事も。つまらないやつあたりをして」
「この間はあたしも言いすぎたから。あんただって好きでこんなところに来たわけじゃないんだし」
少し考えて、聡次郎は答える。
「いや、やっぱり俺は自分でここを選んだんだと思う。心のどこかで憧れていたのかもしれない。あの時、本当に他に行きたい所が無かったんだ。だからあそこで待っていられたんだ」
「あのままもし、あたしが戸を開けなかったら?」
「多分ずっと待ってたと思う。何日でも。お前が開けてくれるまで。だからお前は戸を開けたんだろ?」
「そう、かもしれない」
「なのに俺には覚悟が足りなかった。ハルさんみたいな。俺のために飛び出してくれたハルさんみたいな覚悟が足りなかったんだよ。ここで生きる覚悟が」
「他の道じゃダメなの?」
「それもあるのかもしれない。でも、刀がいるとかいらないとか、組長やハルさんがどうとか、そんなことは関係ない。そんな事にこだわってたから、自信が無くなったんだ。ここは俺が選んだ場所なんだよ」
そうだ。あの時、ほかの大人に泣きつくことだって出来なかった訳じゃないはずだ。それでも俺はここを選んだ。
「それにここには、組長がいて、おかみさんがいて、辰雄がいて、ハルさんがいて、お前がいるんだ。俺、他のどこよりもここが好きなんだよ」
「でも、言っとくけど辛い世界だよ」
「それでも俺は選んだんだよ。お前のせいじゃ無かったんだ。俺、親から逃げてたら親の方が死んじまった。親類からも逃げた。でもここは違う。自分の足でここに来た。なのに逃げ道ばかり探してた。だから苦しかったんだ。お前、組員は家族だって言ったよな? 俺には向いて無いかもしれないけど、ここの家族でいたいんだよ」
「わざわざこんな世界を選ぶんだね。でも」富士子が掃除を終えて、道具を片づけながら言う。
「ありがとう。この組の事を家族と言ってくれて」
富士子が笑う。
「昨日から礼ばっかり言ってるな」
聡次郎も笑った。
「お礼くらい言えるわよ。ハルさんも早く良くなるといいね」
「そうだな」
そのまま富士子は事務所を出ていった。
ハルさんか。いい人だよな。組の事を思っていて。俺の世話まで焼いてくれて。
ハルさんには何でも見破られてる。ああそうだよ、落とされたのは俺の方だよ。結局俺は富士子が好きなんだよ。だからあいつの言う事にいちいち突っかかりたくなったんだ。
ハルさんにはとっくに解ってたんだ。きっと。
その時聡次郎は思った。
そう言えば……。
昨日、富士子はハルさんの事で随分動揺してたな。ずっと泣きっぱなしだったし。
この間の喧嘩の時も、俺がハルさんをなじったら余計に怒った気がする。
ハルさんは長くここにいるみたいだし。
そしてふと、考える。
ひょっとして、富士子は、ハルさんに気があるんじゃないか?