刀
翌日、聡次郎は富士子の声で起こされた。台所で朝食を食べろと言っている。
どうにか起きて台所に行くと、制服姿の富士子が辰雄に朝食を取らせていた。
「あんた、新入りなのにのんきねえ。明日から早めに起きて事務所の掃除をして頂戴。それから家事も手伝って」
「なんで俺がお前を手伝わなくちゃいけないんだ?」
「昨日ハルさんに言われたでしょ、まずはあたしを手伝うようにって。実際まだ他に出来る事なんてないんだし」
そう言えば昨夜そんな事を言われた気もする。
「とりあえず食べたら食器を洗っておいて。あたしは辰雄を送って行かなくちゃ。文化祭の準備があって、早く出なくちゃいけないの。昨日は遅刻しているし」
富士子は時計を見ながら少しイライラしていた。すると辰雄が
「聡次郎兄ちゃんと行く」と言いだした。
「……それでいいの?」と富士子が聞いたが
「聡次郎兄ちゃんがいい」ときっぱり言う。
「解った。聡次郎、辰雄を送って行って。あたしはもう出るから」
俺の意見は関係無しかよ。そう思うものの今の聡次郎に出来る事と言えば、そんな事しかない。結局富士子に言われた事をこなすしかなさそうだ。
こうして聡次郎の華風組での生活が始まった。
それでもいざ、生活するうちに、聡次郎の日常はそれなりに充実してきた。朝の事務所掃除から始まり、日中は辰雄の面倒を見て富士子の手伝い。組長夫妻は本来組を支えるには若干若い年齢らしく、その分関係先との良好な状態を保つために色々苦労も多いらしい。組長は事務所にこもる日が多かったし、おかみさんも忙しげに外出することが多い。今まで家事と辰雄の面倒はほとんど富士子の仕事だったようで、聡次郎はしっかり、こき使われてしまう。
夕方からハルの手が開けば街のシマを路地の隅々まで案内される。そして組がかかわる店や、土木関係者に起こりがちなトラブルを説明され、旨くまとめるためにどんな付き合いが必要かを教えてくれた。
最近は麗愛会と言う同じ街にある組織が、華風組にちょっかいを出しているらしい。
向こうが新興勢力と言うこともあるが、どうやら華風組とは家風が水と油で会わないことも一因らしい。聡次郎達が廻って歩いている時も、チンピラに絡まれる。
ほとんどはやり過ごしたが、ついに喧嘩になったこともある。
その時はハルが簡単にねじ伏せてしまったのだが、聡次郎も軽く身をかわし、すばしっこさを見せつけた。
「いい動きをしているな。さすが、剣道やってただけの事はある」
「ハルさんも強いんですね。腕っ節じゃとてもかなわないや」
「慣れだよこれぐらい。お前もすぐに慣れる、あれだけ動けるんだからな。 でも調子に乗って余計な喧嘩は買うんじゃないぞ。人の恨みは買うな」
「解ってますよ。耳にタコが出来そうだ」
「まあ、そう言うな。買いたくなくても買うはめになる恨みもあるんだ。それを避けるにはお前はまだ若すぎる。だから余計な事に首を突っ込ませたくないんだよ。そのうち喧嘩は嫌でもしなくちゃならなくなるんだ。あせるな」
そう言ってハルは笑った。
数日たったある日、聡次郎はハルに呼ばれた。
「約束のいいものを見せてやるよ」
そう言ってハルは聡次郎を階下に案内した。そこには稽古場らしき空間が広がっていたが、奥に並んでいるのは竹刀ではなく木刀だ。
「どうだ? 振ってみるか?」
ハルが聞いた。そう言えばもう何日も竹刀を握っていない。聡次郎は喜んで木刀を手に取った。さっそく振ってみる。その様子をハルが見ていた。
「やっぱり筋がいいな。木刀の振り方としてはまだまだだが、すぐにコツをつかみそうだ。これからは稽古を付けてやるよ」
「ハルさんがですか?」
「甘く見るなよ。俺は強いぞ。でも今日ここに来たのはそのためじゃない。約束のいいものを見せてやるよ」
そう言うとハルは奥の小部屋の扉を開けた。
そこにはたくさんの刀が並んでいた。ドス、と呼ばれている短刀もある。
ハルはその一番上にある刀を手に取った。鞘をすらりと抜くと、見事な波紋の刃があらわになる。
「きれいですね」聡次郎が思わず言う。
「うちはドスの手入れは若い奴の仕事だが、刀はなじみの職人に頼んでいるんだ。波紋は刀の出来で善し悪しがあるんだろうが、刀を美しく見せているのはむしろ砥ぎの良さだろう。一流の職人だよ。キレもいい。これからはドスの砥ぎもお前にやってもらおう。命を預ける道具だ。大事に扱えよ」
「解りました」
そう答えながらも、聡次郎はまだうっとりとしている。
「お前には下手な美人よりも、刀の方が効きそうだな」
ハルがそうからかって笑った。
それから聡次郎は、夕方にハルに木刀の稽古を付けてもらうのが日課になった。稽古が終わればあの小部屋でドスを研ぐ。時折あの刀の波紋や砥がれ方と見比べては、自分なりに工夫したりもする。
聡次郎は刀の美しさにすっかり魅了されていた。用が無くてもあの部屋へ行き、刀の波紋を見ているだけでも心が躍ってきた。
ハルが「俺は強い」と言ったのは伊達ではなかった。
聡次郎もだんだんと木刀に慣れてきたにもかかわらず、ハルにはなかなか打ちこめない。隙が無いのだ。
「真剣で隙を見せたら命が無いからだ」
と、ハルは言うが、おそらく普通の世界だったら相当な有段者だろう。
この世界にはこんな相手がゴロゴロいるのだろうか?
聡次郎は畏怖を感じるとともに、何か期待するものもにじみ出ている様な気がした。
「俺に打ち込めるようになったら、真剣を振らせてやるよ」
ハルのこの言葉に聡次郎は初めてのご褒美に期待を膨らませる、幼児のような気持で稽古を続けていたが、その日は意外に早くやってきた。
幾度も幾度もハルに跳ね返されていた木刀が、突然、ハルの間合いの中に入って行った。
聡次郎自身が一番唖然とした。
「偶然じゃないんですか?」
「それは無い。そんな事があったら、俺はこの世にいないよ」ハルも驚いている。
「思った以上にお前は向いているようだ。約束だ、刀を振らせてやるよ」
その言葉に聡次郎は躍り上がるような気持と、その奥にある何かゾクリとする感覚を味わっていたが、あえて気にしないようにした。それほど刀が恋しかった。
振ってみて驚いた。あまりにもしっくりとなじんでくる。竹刀や木刀とは比べ物にならない感覚だ。
以前喧嘩で偶然に握った鉄の棒にも近かったが、それよりずっと重さが身体に同化していく。まるで自分の手の一部のようだ。本来自分の中にあった物がやっと帰って来たかのようだ。
さらに振ってみる。なんのためらいもない。自分の体の一部だったとしか思えない。
空の切り方、刃先の動かし方、重心の置き方。全てを身体の方が知っていた。
高揚するのが解る。だんだん手が、刀が熱くなっていく。刀そのものが熱を帯びていくようだ。そしてうっとりとする陶酔感。俺はこんなにも刀が恋しかったんだ。刀を鞘に戻した時には思わずため息が出た。
「驚いた。お前、刀を持つのは初めてだよな?」ハルが聞いてくる。
「もちろんです」
「お前は刀との相性が抜群にいいようだ。ここに来たのも偶然じゃないのかもしれない。いや、これは仕込み甲斐がありそうだ。きっと俺をすぐに追い越すぞ」
ハルの期待が高まっている事がその表情から、聡次郎にも伝わった。
それからの稽古は一層熱を帯びたものになった。聡次郎はもう夢中だ。
そうそう真剣を握らせてもらえる訳ではないが、この動きの一つ一つがあの至福の瞬間につながるのかと思うと、やりがいを感じずにはいられない。
もっと上達したい。さらに刀と一体になりたい。そんな思いに突き動かされて、聡次郎の腕は上がって行く。
季節が冬を告げる頃、華風組と麗愛会の小競り合いはますます頻繁になって行く。華風組の関係する店や現場に麗愛会の組員が来ては脅しや嫌がらせを仕掛けて来た。
初めは数人でシマを見回って近づけさせないようにするだけで良かったのが、だんだん人数が増えて来る。
そのうちお互いが集団になり、事が起これば喧嘩が勃発する。そうなるとそれぞれが組から助っ人を呼んで、どちらかが力で抑え込む。そんな事ばかりが繰り返される日々が続いていた。
ついに聡次郎にもそんな喧嘩の助っ人に行く日がやってきた。もちろんハルの手伝いで。
ハルは聡次郎にドスを持たせる。
「いいか、これはあくまでも身を守るものだ。決して相手に刺してはいけない。命を奪うな、余計な恨みを買うんじゃないぞ。お前の腕なら出来るはずだ」
ハルは聡次郎に念を押した。