富士子
その夜、聡次郎は家出をした。両親の写真と身の回りのわずかな着替えしか持たなかった。一瞬、竹刀を持とうかとも考えたが、目立ちすぎるし、二度とふるうこともないような気がして持たなかった。
最初の夜は友人にこっそり泊めてもらったが、それでは足が付くので、二日目は街を歩き回った後、公園で野宿をした。どこか行き場を決めなくてはいけない。やくざの家に近づいただけでこうまで言われてしまうなら、いっそやくざになってしまおうか? そんな事を漠然と考えながら、聡次郎は華風組の組長の家の通用口にやってきた。
そんな時に限って、そこには誰もいなかった。辰雄の姿もない。表に事務所があるようだが、どうせすぐに追い返されると思った。ここで待つしかない。
しばらく待っていると、案の定、あの少女が辰雄を連れてやってきた。聡次郎を見て唖然としている。
「あなたも懲りないわね。こんなところにいたら、誤解されるって言ったでしょ」
「もうとっくに誤解されている。他に行くあてが無いからここに来た」
「家に帰ればいいじゃない」
「帰る家なんてない。両親は死んだ。何処へも行くところなんてないんだ。俺を華風組に入れてくれ」
少女は目を丸くした。
「それなら親戚の家とか……」
「その親戚が俺を迷惑がってる。あんなところでうまくやれるとは思えない。お前、ここに住んでるんだろ? 誰かに言って取り継いでくれないか?」
「無茶な事言わないでよ。私は関係ないわ。頼むんだったら事務所に行って自分で頼めばいいじゃない」
「そんなことしたって追い返されるのは目に見えているじゃないか。取り継いでくれるまで、俺、ここから離れないぜ」
「勝手にすれば? 私は知らないから」
少女はそう言って辰雄と中に入ってしまう。聡次郎は仕方なく、入口に座り込んだ。
それから人が出てくる気配はなかったが、聡次郎は待った。ただ待ち続けた。本当に他に行くところも行きたい所も無かった。何がしたいのか、何をすればいいのかも解らなかった。ただ、途方に暮れて待ち続けるほか無かった。
一夜明けて、制服姿の少女と園服を着た辰雄が姿を現した。
「あきれた。あんた帰らなかったの?」
「言っただろ、帰るところなんてないんだ。お前が中に入れてくれなきゃ、俺はここで待つよりほかにないんだ」
「本気なの? 自分が何言ってるか解ってるの?」
「ああ解ってるさ。でも、帰るところが無い以上、俺、ここに入るかのたれ死ぬかのどっちかしかないんだ。だから俺は絶対にここに入ると決めたんだ」
何だか子供じみた事を言った気がした。それでも他に道があるとも思えなかった。
少女は黙り込んでしばらく聡次郎を見ている。ああ、またいやな目つきをしていると聡次郎は思う。
不意に少女は入口の扉を開けた。
「どうしても入る? もう二度と戻れないかもしれないわよ」
少女が聞いた。
「もう、戻る所なんてないんだ」
聡次郎が答えた。
「そう。なら入って、今人を呼んで来るから」
少女は一層暗い目をして聡次郎を招き入れる。
「お前、名前は?」
「富士子。あんたは?」
「土間、聡次郎だ」
「聡次郎ね、一応兄さんに話してみるわ。無駄だと思うけど」
そう言って富士子は奥へと消えていく。
頼りない仲介役だが仕方ない。聡次郎はそのまま待っていた。
しばらくすると、しっかりとした体格の男がやってきた。
「お前が聡次郎か?」
聡次郎は黙ってうなずいた。
「俺は春治だ。多分俺がお前の面倒をみる事になると思う。よろしくな」
春治が愛想よく言った。
「それじゃ……」
「お前の若さでは異例だが、組長はお前を組員にするつもりのようだ。多分富士子さんが説き伏せたんだろうな。そんな若さでここに来ちまったのも不運だが、これも何かの縁なんだろう」
そう言って春治は聡次郎を事務所の様な所へ連れて来た。
周りには大勢の大人達、一番奥に組長らしき人物。その隣にはおかみさんらしき女性、そして驚いたことにそのすぐそばに、富士子と辰雄がいた。
「私が華風組組長の華風正嗣だ。隣は妻の静江、前にいるのは息子の辰雄。その隣は妹の富士子だ」
妹! 富士子は組長の妹だったのか。そして辰雄は息子……
「他に私には弟夫婦もいるが、今は離れて暮らしている。お前がここに住めば、実質寝食を共にするのは私達になるだろう。本当にここに入る気があるんだな?」
「はい」
組長の問いに聡次郎は即答した。少し早すぎるぐらいに。
「ここに杯が用意してある。これから儀式を始めるが、この杯を飲んだらもう元の世界には戻れない。後に戻ることは出来なくなるぞ。それでいいんだな?」
一瞬、本当に一瞬のためらいが聡次郎を襲う。皆が見ている。富士子があの暗い目をしている。
聡次郎は一気に杯を飲み干した。
一通りの儀式が終わると春治が聡次郎を部屋へと案内してくれた。富士子と辰雄は出かけたようだ。
「辰雄が組長の息子、富士子が妹だったなんて驚いたな」
聡次郎がぽつりと言った。
「知らなかったのか? それでよく富士子さんを説き伏せたな。大した奴だ」
春治が笑う。
「別に説き伏せた訳じゃないです。通用口でずっと粘っていて、ほかに行くところが無いって言ったら入れてくれたんです。俺の粘り勝ちです」
「粘り勝ちね。それでも大したもんだ。富士子さんは頑固な所があるから。それともよほど同情したのかな? 気のいい、優しいところもある娘だからな」
「あれでですか? なんだか気の強い奴だと思いました」
「そりゃ、お前の事を心配したんだよ。こんな所をうろついて、まっとうな人生をダメにしたら大変だって誰でも思うさ。しかしまあ、これでお前も華風組の一員だ。昨夜寝てないんだろう? と、いうよりしばらく風呂にも入った様には見えないな。まずはひと眠りすればいい。風呂を沸かしておいてやるから」
そう言われて案内された部屋に入ると一気に睡魔が襲って来た。聡次郎はそのまま、泥のように眠り込んでしまった。
目が覚めると春治に風呂を案内され、さっぱりした所で自分の受け持つシマを案内すると言われて、夜の街へ出る事になった。
「俺、いきなり夜に出かけていいんですか?」
聡次郎はつい聞いてしまった。
「ここはそう言う世界だよ。今日は俺がお前を歓迎してやるよ」
そう、春治は笑った。
「久しぶりの弟分だからな、お前は。まあ、新入りはたいてい俺の世話になるんだ」
「へえ……。俺の前にも沢山世話したんですか?」
「沢山って訳でもないが、俺もついつい世話好きだから組長にも都合がいいんだろう。もう四人も面倒見て来たよ。お前は晴れて五人目だ」
「春治さんが」
聡次郎が言いかけると春治がさえぎって
「ハルでいいよ。みんなそう呼ぶ」
「ハル……さんが面倒見た人で俺の前はどんな人なんですか?」
この質問にハルの顔色が変わった。
「カズヒロ、って奴だ。二年前に喧嘩で刺されて死んだよ」
聡次郎は息をのむ。そうだった。ここはそう言う世界だった。
「だが今日はお前の歓迎会だ。まずは一杯飲みに行こう」
ハルが明るく言う。
聡次郎も余計な事を聞いてしまったのが気になって、少し周りを見回すと、
「ちょっと待ってて下さい」
と言い残し、少し後ろを歩いていた女性達に声をかけた。
数分後、聡次郎は女性二人を伴って、ハルの前に現れる。
「……驚いたな。お前本当に大した奴だ」
ハルが小声で話しかける。
「……そうでもないですが、俺、道場の仲間内では、こう言う時の調達係だったんです」
聡次郎も小声で答える。
「道場?」
「剣道やってたんです。ガキの頃から」
これを聞いてハルは「ほう?」と言う顔をした。
「それなら後で面白いものを見せてやるよ。楽しみにしてな」
と言う。
その後、四人で飲んで食べると聡次郎も酔いが回ってきた。女性達と別れた後は酔い覚ましに夜の街を歩く。
いくらか足に来ている聡次郎を見ながらハルが聞く。
「お前、年はいくつだ?」
「十九……」
「嘘つけ、男がサバ読んでどうするんだ? 十八か?」
「半年もすれば十九です」
「うちは家風が古いから、色々うるさいところもある。ただそれとは別にこれだけは覚えておけ。人の恨みは買うな。女でも男でも関係ない。この世界で恨みを買うと取り返しのつかないこともあるんだ」
「だって、嫌われ者の集りみたいな世界なんじゃないんですか?」
聡次郎は親の葬儀の時の視線を思い出す。
「それと恨みを買うのは全く別だ。うちは前の組長が刺殺されてるんだ。余計な恨みは意外な結果を招く。堅気に迷惑をかけないのはもちろんだが、それ以外でも恨みは買うな。これは俺からの忠告だ」
ハルは真剣なまなざしで言った。