ひとつ
ハルさんが逝ってしまった時は、本当に寂しかった。 心に穴が開くとはこういうことなのかと、嫌でも思い知らされた。でもそれは、富士子を失った時の比では無かったんだ。
あの日はハルさんの一周忌で、俺達は久しぶりに集まっていた。
法要を終え、組に戻り、ハルさんを偲んで思い出話ばかりをしていた。
組を出る時、俺はほんの少しだけ、先を歩いていた。
富士子は組長達とまだ話していたし、久しぶりに会ったハルオとの時間を組長達が惜しんでいるように思えたから、本当に少しだけ先を歩いていた。
富士子達は、すぐ、追いついてくるはずだった。
ハルさんの時と違って、殺気なんてまるで感じなかった。
後ろの様子がおかしいと思った時には、すでに富士子は倒れかかっていた。
今でも蘇る、スローモーションのような光景。
俺が踵を返す時、刺した女はすでに自分の胸を貫いていた。二人の女が倒れる。
富士子は組長の腕に崩れ落ちていた。俺はその手を握った。
「聡次郎、生きて」
「富士子」
「生きて、組を守って」
富士子はまだ何か言いかけていたが、言葉にならずにこときれてしまった。
解ってるよ、富士子。お前はハルオの事を言いたかったはずだ。
本当は真っ先にその名を呼びたかっただろうに、俺のために、先に俺の名を呼んでくれたんだ。
そんな風にして、俺は富士子を失った。
刺した女はハルさんを殺した男の恋人だったと聞いた。
あの時俺は、男を刺しこそはしなかったが、男の腕を奪っていた。男は何かの演奏家で、俺が最後の仕事になるはずだったらしい。恋人とやり直すつもりだったらしい。
……仕事。仕事で人が殺せるのかよ。
しかし男は自分で命を絶ってしまった。俺は仇さえも失った。
俺があの男を真底憎んだように、あの女も俺を憎んだんだろう。そして、富士子までも。
俺は人を三人殺した。殺したも同然だ。俺の、ハルさんを失った時の憎しみが、三人の命を奪ったんだ。
せめて、ハルオを守ろうと思った。こんな血塗られた手で、母親を奪ったも同然の手でハルオを抱くのはためらわれるが、せめて守ってはやりたいと思っていた。
しかし、それさえも許されなかった。
切り出したのはおかみさんだった。組長は、もう三日も部屋に閉じこもっていた。
「聡次郎、こんな事を言うのは本当に心苦しいんだけど」
実際、おかみさんの表情は苦しげだった。
「ハルオを私の知人に預けようと思うの」
「え?」
聞き返した俺は、言葉の意味を飲み込むのに、随分時間がかかった。ハルオをどうするって?
「結局、あの男が誰に雇われたのか解らないのよ。うちの若い者も正体の知れない者に狙われたらしいの。これまでの経緯から察すると、多分、一番の標的はあなた。次に狙われるのはハルオでしょう。今は主人もあなたもこんな状態だし、このままじゃ、ハルオの命が一番危ないわ。解って頂戴、聡次郎」
解れ? いったい何を解れって言うんだ? 富士子を失って、ハルさんもいなくて、このうえハルオまでも手放せって言うのか? そんな俺に組を守れって言うのか? 組を守って生きろと。
だが、今、おかみさんと口論できる余裕はなかった。言葉のすべてが心の闇に沈んで消えていくようだ。
「大丈夫よ、本当に信頼できる人だから。こんな世界にかかわっているのに、昔堅気で情の厚い、優しい人なのよ。もしかしたらハルオにとってもここで育つより、ずっといいのかもしれない」
俺なんかの手で育つより、ずっといい。そんな事言われなくても解ってる。だが、恨みにまみれた俺の手じゃ、ハルオを守ってやる事さえできないのか。
俺に父親の資格はない。あの時、ハルさんの仇への憎しみでいっぱいになった時、俺は富士子とハルオをすでに裏切っていた。あの時、富士子はそれでも待っていてくれたが、これはきっと、その罰なんだ。
「あんた達の帰る場所を守りたいだけ」 「待ってるから、無事に戻って聡次郎」 「とっくに覚悟はできている」
思い出す、富士子の言葉の数々。富士子はこんなにも組を、俺を愛していてくれていた。誰よりも、俺の心を守っていてくれていた。それは身体の危険を守る事よりも、どれほど難しい事だったんだろう。
あいつは優しかった。そして、本当に強かった。俺なんかよりも、ずっと。
なんで、俺はこうなんだろう? なんで、富士子やハルさんのように優しく生きられないんだろう?
せめてハルオはハルさんのように、優しく生きてくれるだろうか? 優しい人に育てられれば、人の身も、心も傷つけない、優しい男になってくれるだろうか?
その後、外へ出た記憶は正直無かった。どこをどう歩いたのか、飲んだ記憶さえ無い。命を狙われている事さえ、どうでもよかった。最後に生きろと言った富士子の言葉が、切ない。
気が付けば誰かに話をしていたようだ。
……奥さんが亡くなったの? ……それは気の毒ね。
……息子さんも手放さなきゃいけないの? ……それは辛いわね。
……とにかく飲んだら? ここは私がおごるから。……女におごられたくない? ばかねえ。こんな時に。
……それに私はもともと男よ。半分男みたいなものだからいいでしょ。
……女の人生も悪くないわよ。下手な男よりずっと強いし。……私は女に生まれ変わってよかったわ。
「女は強いよ。あいつも強かった。……愛? 馬鹿言え、そんなもんじゃない。俺達は、魂を預け合った仲なんだ」
回らないろれつで、そんな事を言ったような気がする。
酒の海に溺れながら、眠り込む前に、ふと、考える。
女になって生きる?
姿も、名前も変えて、力に頼ってばかりの弱さもたち切って、富士子のように、強く、優しく、生きられたら……
姿を変えて、聡次郎がいなくなれば、いずれ人の記憶からも消えるだろう。そうなれば組が付け狙われることもなくなる。ハルオだって安全だ。
もう、刀なんて握りたくない。腕っ節なんて欲しくもない。そんなもんじゃ何にも守れなかったじゃないか。
それならいっそ。
富士子。お前は俺に生きろと言った。組を守れと言った。お前は立派に組を守っていた。俺は未だに心が折れればただの組のお荷物だ。お前に出会ったあの頃と、何にも変わっちゃいない。
今のままじゃ、お前との最後の約束を果たせそうにない。
聡次郎は、扉の前に立っていた。病院の扉だ。
短絡的かもしれない。女々しいのかもしれない。でも俺は決めた。
あの日、あの裏口で、お前は俺の運命の扉を開いてくれた。この世界で生きる道を開いてくれた。
「聡次郎は聡次郎、ハルさんはハルさん」
お前の言ったとおりだ。
俺はハルさんのようにはなれない。あんなに強く、優しくは生きられない。でも
今、俺は決めた。二度と刀を握らないために。つまらない恨みを買わないために。ハルオの安全のためにも。
何より富士子。お前のように生きるために。少しでもお前の生きざまに近づけるように。
富士子。お前にあずかってもらっていた魂を、今こそ返してもらうよ。俺達の魂はこれから一つになるんだ。
俺は女に生まれ変わって、お前を目指そう。
今、俺はあの裏口にいた時と同じ気持ちだ。これからどんな人生が待っているのか解らない。それでもお前の魂が一緒になってくれるなら、こんな世界でも生き抜いて行けると思う。組を守っていけると思う。
お前やハルさんに甘えていた、聡次郎はもう、おしまいだ。
そして、聡次郎は自らの手で、扉を開いた。
組長夫妻が私を見つけ出した時、私はすでに聡次郎の姿ではなかった。身体の腫れもほとんど引けて、薄く紅さえ引いていた。
それでも二人は私を組に連れ帰ってくれた。富士子と暮らした思い出の部屋は自分で引き払った。
私は組長に願いでる。
「私は、華風の名をお返ししようと思います。代わりと言ってはなんですが、一つだけお願いがあります」
「どんな願いだ?」
そう聞かれて、組長の目を真っ直ぐ見る。
「どうか私に富士子の名を名乗らせていただけませんか?」
「富士子の名を……」
「これからは、土間、富士子として、生きていきたいと思います」
深く、頭を下げる。
組長はしばらく私を見ていたが
「いいだろう、ただし、条件がある」
「条件?」
「お前はどこへも行ってはいけない。性は名乗らずともお前は家族だ。富士子の名を持つものが姿を消すことに、俺はもう、耐えられない。富士子、ここにいてくれ」
ああ、この人は富士子をどれほど愛していたことか。おかみさんが涙を流している。富士子、お前はこんなにも愛されていたんだよ。そして、お前を守り切れなかった私に、ここにいろと言ってくれているんだ。私は心から誇りに思うよ。お前の名前を名乗れる事を。
「これからの生涯のすべてを、この組に捧げたいと思います。あらためてよろしくお願いします」
庭に出ると辰雄がいた。さびしげな横顔だ。富士子はこの子を本当に可愛がっていた。
「どうしたの?」
「誰?」
「私? 富士子」
「死んだおばちゃんと同じ名前だ」
「……そうね」
「おばちゃんを知っているの?」
「知ってるわ」
「じゃあ、聡次郎兄ちゃんは?」
「二人とも知ってるわ……誰よりも。二人の事ならいくらでも話せるわ」
ここにはお前との思い出がいっぱいある。男としてお前を愛した日々でいっぱいだ。この世のどこかでハルオも静かに暮らしているのだろう。今の私にはそれで十分だ。
「お前は幸せになれるよ」
ハルさんからもらった、最後の言葉。
ハルさん、私は今、幸せです。富士子との思い出に囲まれたこの組を、私が富士子となって守る事が出来る。
私は富士子を目指してここで生きていきます。どこかで幸せに育っている、ハルオの事を想いながら。
富士子。私達が預け合った魂は、今、私の中で一つになっている。お前の魂と共に、私はこれからも生きていくよ。お前の愛したこの組を守りながら。
完
このお話を思いつくきっかけになった、domannaさんに、このお話を捧げます。