死
それから一年がたった。 聡次郎達は華風の姓を名乗り、組から近い場所に部屋を借りて暮らしていた。二人が一緒になってからの月日はそれまでに比べるとずっと穏やかなものになっていた。
喧嘩や乱闘の回数もめっきり減って、小さな小競り合いこそは相変わらずだったが、大きな騒ぎや乱闘に発展する気配は無くなっていった。
その年富士子が子供を宿したため、組長は富士子の心配事が減るようにと、聡次郎をシマの見回りから外し、以前、麗愛会に潰されかけたバーの経営の立て直しに協力するように取り計らった。すでに聡次郎の名は知れ渡っていたので、毎日店に顔を出すだけでもよそからの邪魔は入りにくい。半分は用心棒の代わりでもあった。
ところが聡次郎は意外に向いていたらしい。店の事となると普段よりも細かな事に気が廻るようだ。日常と異なる空間に気が晴れるのか、接客もいい。もともと容姿も悪く無いので女性の客足も増えた。
「全くお前は大した奴だ」
ハルがいつもの褒め方をする。
「以前の調達係ってのは伊達じゃ無かったな。これじゃ富士子さんも別の心配事が増えそうだ」
そう、からかって笑う。
そんな冗談が通用するほど、二人は仲が良かった。
聡次郎は相変わらずハルとの稽古を続けていたが、すでに木刀での打ち合いでの腕は互角になっていた。時折ハルを上回ることも無い訳ではなかったが、ハルが真剣を握った時の強さを聡次郎は良く知っているので、ハルに追いついたという実感はない。あの特別な稽古の後、ハルと真剣を交えた事は一度も無かった。
聡次郎の日々もすっかり安定したものになり、自分の部屋と店、そして組の稽古場を行き来する毎日となっていた。聡次郎が組へ行く時はたびたび富士子も付いて来て、聡次郎の稽古が終わるまで、組長やおかみさんと話しこんでいるようだった。
その日、聡次郎はハルとの打ち合いをする中で、妙な違和感を覚えた。ほんのわずかではあるが、ハルの左腕の動きが鈍くなるような気がした。
以前ハルは聡次郎をかばって左腕に大怪我を負っている。聡次郎は気になった。
「ハルさん、なんか左腕の動き、おかしくないですか?」
思い切って聞いて見る。
「そうか? 自分じゃわからないな。特に違和感もないし」
ハルは意外そうな顔をした。
やっぱり気のせいか。そう思っていると、ハルが話題を変えた。
「お前、最近流れ者の刀使いの噂を聞いているか?」
「いや、そんなやつ、いるんですか?」
「本来は何か楽器を弾いていたらしいが、何をどう間違ったのか、こっちの世界で刀を振るいだしたらしい。なんでも相当な腕前だって噂だ」
「麗愛会の奴でしょうか?」
「言っただろ? 流れ者だよ。それだけに正体が見えない。誰かに雇われているのかもしれない。気をつけろよ、俺もお前もこの世界じゃちょっとした有名人だ。特にお前はもうすぐ親になるんだし」
「今はシマの見回りにも出ていませんし、店におかしな奴が姿を現したこともありませんよ。大丈夫です」
「ならいいが、今は富士子さんも大事な時期だ。気を付けるに越したことは無いと思ったんだ。頭の隅にでも入れておいてくれ」
そう、ハルがいつものように笑う。
思えばそれが、ハルが聡次郎に見せた最後の笑顔になった。
その後組から帰る時、ハルが「富士子さんもいる事だし、そこまで送ろう」と、言ってくれた。
今では聡次郎も、富士子と外を歩く時は用心のためにドスを隠し持っている事をハルも知ってはいたが、このところ、富士子を気遣って帰りに送ってくれる事が増えていた。
二人の部屋が見えた所で、いつものようにハルと別れる。あんまり、いつもどおりだったので、ハルがどんな顔をしていたのか聡次郎は憶えていない。
すぐに、一見おとなしそうな感じの男とすれ違う。直後に聡次郎は殺気を感じ取った。
振り返る。
ハルさんと男が向かい合っている。
二人が同時に動く。
ハルさんが倒れる。
男が走り去ろうとする。
聡次郎が追いかけようとした時、ハルさんが聡次郎の服をつかんで止めた。
「聡次郎、ダメだ」
「ハルさん」
「お前には富士子さんがいる。子供が生まれる」
「ハルさん、しっかりしてくれ!」
「お前は幸せになれるよ」
「ダメだ! ハルさん! 俺はあんたを追い越していないじゃないか!」
ダメだ、ハルさん。目を閉じないでくれ。富士子だってこんなにあんたの名前を呼んでるじゃないか。
「カズヒロに、会える、かな……」
それがハルの最後の言葉だった。ハルはそのまま絶命した。
遺体が組に運ばれると、誰もが悲しみに打ちひしがれていた。ハルさんは組中の者から慕われていた。
富士子が泣いている。おかみさんもだ。以前、ハルさんが怪我をした時も、やっぱり富士子は泣いていた。
あの時は富士子と仲直りが出来て良かったと、ハルさんは笑ってくれたのに。
聡次郎は立ち上がって部屋を出た。刀を握りしめて。
「聡次郎、どこに行く気?」
追って来た富士子が聞く。聡次郎は答えない。
「まさかハルさんの仇打ちじゃないでしょうね」
再び聞くが、聡次郎は黙ったままだ。
「ダメよ聡次郎。あんた、親になるのよ。これから子供を育てるあんたが人を殺してどうするつもり?」
それでも聡次郎の返事はない。
「あんたに人は斬れないわ」
富士子は言い切る。
「あの時、なんでハルさんがあんたを止めたと思ってんの? あんたに人を斬らせないためよ! ハルさんはあんたに人を斬って欲しく無かったのよ! なのにあんたはハルさんの思いを裏切るっていうの?」
富士子は絶叫した。
「……解ってるよ。全部解ってる、そんな事」
ようやく聡次郎の口が開いた。
「ハルさんはいつだってそうだった。俺に人を斬るなと教えてくれた。俺は簡単に人を斬らないとも言ってくれた」
聡次郎の声が震える。
「なのに、そのハルさんが人に斬られて死んじまったじゃないか!」
涙がこぼれて来た。
「俺は許せない、どうしても。よりによってなんでハルさんなんだよ! いい人だったのに、本当にいい人だったのに!」
「なら、なんでそんなハルさんの思いを裏切るような事をしようとするのよ……」
富士子が涙にくれながら言う。
「許せないんだよ! どうしても! 人の恨みを買うなっていつも言ってたハルさんが、なんでこんな目に会うんだよ! ハルさんは恨まれるなとは言ったさ。でも、恨むなとは言わなかった。俺は恨む。ハルさんを斬った奴が憎い」
「そんなことしても、ハルさんは喜ばないよ。逆に子供を人殺しの子にしたって、悲しむだけよ」
「それも解ってる。相手が相当強い奴だってことも解ってる。あの、ハルさんがやられる相手だ。並みの強さじゃないんだろう。むしろ、俺の方が斬られるかもしれない。全部解っているんだ」
聡次郎の振り縛るような言葉を、富士子は聞いていた。
「それでも憎いんだよ。……富士子」
聡次郎は富士子の目を見た。
「別れてくれないか? たった今」
「……聡次郎。あんた、何言ってんの?」
「俺がハルさんの仇を打てば、間違いなく前科者だ。生まれてくる子は人殺しの子になる。逆に斬られれば生きて帰れない。これでお前に待てとは言えない。だったら今すぐ別れてくれ」
「なんてこと言うのよ、聡次郎。そんなことできる訳無いじゃないの」
「お前から預かった魂を、今返すよ。お前は子供と生きてくれ」
「聡次郎、解らないの? あんたに人は斬れないのに。あんたはあたしを……魂を預け合ったあたしを裏切ってまで、不幸にしてまで、仇を打ちたいの? そんなに相手が憎いっていうの?」
聡次郎は富士子を抱きしめた。
「ごめん。富士子。それでも、憎いんだ」
富士子に返事は無かった。聡次郎は言う。
「俺は斬られないよ。相手にもためらわない。必ず一刺しで仕留める」
自分が初めて、本気で人を殺そうとしているのが解った。震えが走る。そのまま富士子からそっと離れる。
「さよなら」
それだけ言って、聡次郎は組を飛び出した。
後ろから富士子が追ってくるのが気配で解る。それでも聡次郎は振り返らない。
表に出ると、すでにあの男がいた。どうやら自分を待っていたようだ。もしかしたら最初から、自分の方が狙いだったのかもしれない。
ピン、と空気が張り詰める。力量を計るまでもない。ハルさんを一発で仕留めた相手だ。全身がこれまでにないほど鋭敏になっているのが解る。退路は断った。もう、俺を待つ人はいない。斬るか、斬り殺されるか。
まるでハルさんが乗り移ったような気がした。
互いが動いた。殆んど同時だった。相手の刃をギリギリにかわした。腕を容赦なく斬りつけた。これまでにない、ざっくりとした感覚。これで相手の腕は動かない。刺すなら今だ!
刺すな、聡次郎。
ハルさんの声が聞こえた。聡次郎の手が止まる。
ああ、ハルさん、ひどいよ。こんな時にまで。なんであんたは、死んじまってからもこんなに優しいんだ。
聡次郎は刀を地面にたたきつけた。
「消えろ! 今すぐ消えてくれ! てめえの面なんか、二度と見たくない!」
相手に怒鳴り散らした。男は腕からおびただしい血を流しながらも、ゆっくりと去って行った。
その姿を見送ると、聡次郎はその場に座り込んだ。
気づくと目の前に富士子が立っていた。俺は富士子を裏切った……。
「おかえり、聡次郎」
富士子は言った。
俺は富士子を裏切った。それでも富士子は待っていてくれた。いつものように。
お前の言うとおり、ハルさんが言ってくれたとおり、俺には人は斬れない。それに気づかずにいたのは俺だけだったんだ。お前の魂を返したつもりでも、やっぱりお前は俺の中にいてくれたんだ。たとえ俺が裏切ろうとも。
それから数カ月後、富士子は無事に子供を出産した。男の子だった。
子供の名は「ハルオ」と命名された。




