火事
聡次郎はためらっていた。ほんの一瞬だが。
その手の中には杯がある。
「これを飲んだら後戻りはできない」
そう組長に言われてほんの一瞬だがためらいが生まれた。
周りの視線も感じているし、組長の視線も感じている。そして富士子の視線が最も強く感じられるような気がした。ためらったなどと富士子の前で思われたくはない。
聡次郎は一気に杯を飲み干した。
富士子はこっそりと小さなため息をついていたが、聡次郎が気付く事はなかった。
聡次郎が華風組にやってきたのは聡次郎十八歳の秋である。
子供の頃は警官の父に剣道を習い、常に父に憧れを抱いていた聡次郎だが、近年はその父とさっぱりそりが合わなくなり、かろうじて道場には通っているものの、やることなすこと父に逆らってばかりいた。
聡次郎自身は逆らっているつもりはないが、父から見てそう見えるなら仕方ない。
母はいつでも父の味方だし、父と顔を合わせてもろくなことはないので、聡次郎は父を避けてばかりいた。
そんな時に事件が起きた。
聡次郎の友人が他校の生徒に絡まれたのをきっかけに、大きな喧嘩が勃発した。
もちろん聡次郎も巻き込まれ応戦していたのだが、その時竹刀の代わりについ、手元に転がって来た鉄の棒を握ってしまった。それがこれからの自分の人生を狂わせるとも知らずに。
「聡次郎、後ろだ!」友人の声で聡次郎は振り向いた。誰かが自分に向かって立て看板を振り下ろそうとしている。とっさに手元の鉄の棒を握る。そして跳ね返した。
そのままいつものようにかまえたのだが……。
感覚が、違った。ずしりとした鉄の感覚。普段味わうことのない重み。恍惚感が襲ってくる。
その時、聡次郎は我を忘れていた。気が付くと相手の生徒は肩を押さえてもがいている。
聡次郎は相手の肩をたたき折っていたのである。なんの記憶もないままに。
当然事は警察沙汰になり、呼び出された親の面目は丸つぶれ。聡次郎は停学処分。道場は出入り禁止だ。
しかし、肝心の聡次郎はあの鉄の棒を持った時の感覚が忘れられない。異常なまでの恍惚感。
あれはいったい何だったんだろう? そればかりが頭をめぐり、親の言葉は耳に入っていなかった。
学校にも道場にもいかないとなると、かなりの暇を持て余した。あちこち歩き回る訳にもいかない。
しかしじっとしていればあの感覚の事ばかり思い出す。 仕方が無いので聡次郎は近所を散歩することにした。
散歩の途中で、幼い男の子が他の子供にいじめられているのを見かけた。その子供は泣いてばかりいてまるで反撃する様子もない。仕方が無いのでいじめている子たちを追い払い、泣いている男の子に声をかけた。
「男のくせにそんなに泣いてどうするんだよ。だから余計にいじめられるんだ」
「違うよ。僕が泣くからじゃないよ。僕がやくざの子だからいじめるんだよ」
男の子がしゃくりあげながら言う。
「それでも男だったらこう言う時はやりかえさなきゃ。……家はどこだい?」
「ここ」
男の子は目の前の家を指差した。
玄関、と言うより通用口、といった風情。とにかく呼び鈴を鳴らしてみる。
「はい」
若い女の声でインターフォンごしに返事があった。
「あの、この家の前で子供が泣いてるんですけど、ここの子ですか?」
と、聡次郎が聞いた。
「すいません。すぐそっちに行きます」
と返事があって間もなく、入口に少女が現れた。自分と同じくらいに見える。地味な感じのおとなしそうな少女だ。
「辰雄、一人で帰って来たの?」
少女が男の子に聞いた。
「この子、弟かい?」
聡次郎が少女に聞いた。
「親戚。あなた、辰雄を連れて来てくれたの?」
「いや、この子がこの家の前で泣いてたから、家を聞いたらここだって。それでとりあえず呼び鈴を鳴らしただけさ」
「そう……あなたあんまりこの家に近付かない方がいいわよ。辰雄、おいで」
そう言って少女はさっさと扉を閉めてしまう。
なんだよ。せっかく教えてやったのに、礼も無しかよ。聡次郎はむっとした。
翌日も同じ場所で辰雄を見かけた。今度はいじめられている訳ではないが、一人でボールを壁に投げつけている。跳ね返ったボールを取ろうとするが、手先だけで受け止めようとしているのでなかなかボールが捕まらずにいる。
「ダメだそれじゃ。ちゃんと身体で受け止めなくちゃ」
聡次郎が思わず口を出す。
「ボールの前に身体を持って行って、胸元で受け止める。こうだ、やってみな」
自分で手本を見せて、辰雄にボールを投げてやる。今度は辰雄も上手に受け止める。
「キャッチボールの相手になってやろうか?」
「いいの?」
辰雄が目を輝かせる。
「いいさ、俺も暇を持て余しているんだから」
そう言ってボールを投げてやると、辰雄も喜んでボールを投げ返してきた。しばらく相手をしてやっていると
「おばちゃん」
辰雄が少女に気付いて声をかける。
「辰雄、こんなところで遊んでいたの?」
そう言いながらも少女が聡次郎を見る。何となく嫌な……苦手な目つきだ。
「ここには近づかない方がいいって言ったでしょう?」
少女はいきなり切り出した。
「どこにいようが余計な御世話だろ?なんだい、その子と遊んでやったのに。昨日だって礼の一つも言わなかったじゃないか」
聡次郎は少女をなじった。
「あなた、ここがどこかわかってないでしょう?ここはね、華風組の自宅の裏なの。こんな所をうろついてるのを知ってる人に見られたら、余計な噂を立てられるだけよ。悪い事は言わないからここには来ない方がいいわよ」
少女はつっけんどんに言う。
「道を歩くのにいちいち人の目なんか気にしてられるか。俺はこの子と気があっただけだ。ほっといてくれ」
聡次郎はボールを辰雄に返してやると、さっさと帰って行った。
家に帰って見るといきなり母親に小言を聞かされた。
「聡次郎、あなたがやくざの家に出入りしてるって、本当?」
短い時間でこれまた盛大な尾ひれが付いたものだ。近所の誰かが好き勝手なことを言っているのだろうか?
「裏口で見かけた子供の相手をしただけだよ。誰だよ、そんなデマ流してるやつは」
「誰でもいいわ。あなたあんな事件起こしたばかりだから今は色眼鏡で見られるのよ。少し自重しなさい」
「おとなしくしてるじゃないか。それとも一日中家に閉じこもっていろって言うのかよ」
「とにかくおとなしくしていてちょうだい。お父さんには言わないでおくから。これじゃ安心して出かけられないわ」
「どこか出掛けるのか?」
「親の言う事なんてちっとも聞いちゃいないんだから。明日の法事のために今夜からお父さんと、おじいちゃんの家に泊まってくるの。明日の夜には帰るから、おとなしくしているのよ」
見ればまだ早い時間にもかかわらず、夕食の用意が出来ている。これから支度をして出かけるのだろう。
うるさい親がいなければ、家の中の方がのんびりできる。そう思いながら聡次郎は自分の部屋に戻って行った。
親の居ない気軽さで、深夜まで起きていたので、居間の電話がけたたましくなっている事に聡次郎はなかなか気付かずにいた。ねむい身体を無理やり起こし、ようやく電話に出ると親戚の叔母の切迫した声が耳に響いた。
「もしもし、聡次郎君? 大変なの。おじいちゃんの家が火事になって、全員行方不明だっていうの」
聡次郎が病院に着くころには、全員の身元が判明していた。両親の遺体は目で見てそれと解る状態ではなかった。
「身体的特徴」
「歯形が一致」
まるでテレビのニュースで聞く様な単語を耳にしながら、葬儀の準備が進んでいく。
葬儀の最中、聡次郎は列席者達の自分に向ける視線が普通ではない事に気が付いた。皆、よそよそしく、どこか冷たい。同情の言葉の裏に何か嫌なものを感じる。
精進落としが終わる頃、廊下の奥からひそひそと話し声が聞こえた。
「いくら身内だからって、暴力沙汰を起こした上にやくざの家に出入りしている様な子を引き取らなくちゃいけないなんて」
俺の事か?