犯罪的恋愛
残虐表現が含まれています。
「ねえ、チータ」
ネズミに呼ばれて振り返る。
「なんでチータなの?」
そんなこと知るわけがない。気付けばそう呼ばれていて、気付けばそう名乗っていた。これが正式な名前なのか、単なる通称なのかすら判別できなくなって幾久しい。呼び呼ばれる名前があることは便利だと思う。これといって不満もないし、現状のままでいいというのが今の彼の見解であり、今後の方針だった。殺すことと壊すこと以外にまるで頓着しない彼のことだから、イヌとかネコとか最悪ハムスターなんていう不釣り合いな名前でも受け入れたに違いない。そうなったらまず大衆の目を疑う。彼が小動物とか笑えない冗談だ。ライオンを食い殺すハムスターなんて想像するのも嫌になる。
「ねえ、チータ。なんで?」
「知らん」
「そっか」
収穫のない返答だったが、ネズミは満足したらしい。ひとつ頷き口を閉じる。冷たいコンクリート塀を、ぶらつく両足の踵がリズムよく叩く。あと何年この行為を続ければ、コンクリート塀に影響を与えられるのだろう。
「ねえ、チータ。あの女性」
ネズミが指差す。予想した焦点に目を凝らすと、ふくよかな女性が歩いていた。品の良い着物を着ている。何かの行事か、習い事でもしているのだろう。途切れ途切れの人の波は、ほとんどが茶色い頭をしていたため、彼女の結い上げられた黒髪は際立っていた。
「27歳。見合い帰り。華道が趣味の箱入り娘。ここからじゃ分かりづらいけど、一般的にはよくある体格、よくある顔立ち」
与えられた情報をもとに、隠された体のラインや、遠すぎて見えない表情を想像し当てはめる。出来上がった女性像は決して美人ではなかった。
「チータが好きそうな獲物でしょ?」
当たっていた。尾骨のあたりに走った寒気は、屠る瞬間を夢見た証だ。
「いってらっしゃい」
ネズミは笑顔で手を振った。道化師のようだと思った。
チータは恋多き男である。
条件はただひとつ、心が傾くこと。もっと言えば、相手の死に様をイメージできること。ただしチータの手で齎されるものに限る。
人気のない場所、あるいはどこかの部屋に引きずり込み、怯えて震える体を縛り上げ、服を剥き、冷え切った素肌に刃を滑らせる。それが彼の愛情表現だった。性的行為は一切しない。ただ、ゆっくりと傷つけていく。女性が逃れようともがくほど、彼の心は躍る。女性の一挙一動に鼓動が反応する――このフレーズだけだと、まるで恋する乙女さながらである――というが、真実のほどは分からない。悲痛な叫びは愛の告白。彼の恋愛は、死をもって成就する。
チータにとって、恋すなわち殺人。それは破綻した思想であり思考である。ゆえに彼は、破綻的な犯罪者なのだ。
チータは恋愛にしか興味がない。つまり、殺人にしか目を向けない。好いた女性をどう愛すかが、人生最大にして永遠のテーマだと思っている。そんな彼を、ネズミはいろんな意味で尊敬していた。
「ふふふ」
場所は二階建てのコンクリートビル屋上。フェンスを越えた瀬戸際で、足をぶらつかせているのはネズミだけ。先刻まで隣に立っていたチータは、外壁のとっかかりや幹の太い木を上手に使い飛び降りていった。久しぶりのときめきに、気が急いてしまったのだろう。向かう先には、裏通りを歩く着物姿の女性。常人には理解されない情熱的な告白をしに行ったのだ。
チータの告白は残虐だ。しかし彼にとっては神聖な行為である。ネズミは一度立ち合いたいと申し出たが、あえなく「殺すぞ」とお馴染みの台詞でばっさり切り捨てられてしまった。仕方がないので盗撮による覗き見をしたのだが、期待したほどの収穫はなかった。真実この男は異常者なのだということが理解できただけである。しかも盗撮に気付かれていたようで――それなりに対策を講じておいたのだが、やはりチータの野性は侮れない――うっかり殺されそうになってしまった。恋愛の邪魔は今後一切しないでおこうと心に決めた一件だ。
「あ、告白してる」
慣れた動作で着物姿の女性を昏睡させ、丁寧に担ぎ上げて歩き始める。ただの拉致だ。そしてチータは立派な変質的犯罪者。ちなみにこの時、彼の中ではもう相手の了承が得られたことになっている。究極の勘違い野郎である。そもそもネズミが着物姿の女性を薦めなければ、こんな事態にはならなかっただろう。本人はそのことをきれいに忘れて、愉快そうに足をばたつかせているのだが。
「ばいばい、神崎詩織さん」
チータがこの名を知ることはないだろう。そう考えるとなんだか可笑しくて、ネズミはまた笑った。
■ □ ■ □
着物姿の女性をずっと担いだままでは気が咎めたので、途中から横抱きにした。帯が邪魔で、若干子供抱きのようになってしまったが、チータはまるで気にしなかった。女性はぐったりと昏睡したままで、文句を言える状況にない。
チータは迷いなく歩く。疲れて眠った恋人を、連れ帰っているようにしか見えない。見た目のいい人――チータのことだ――というのは、それだけで良い解釈をされるから幸運である。実際は拉致監禁の上、これから暴行し殺害せんとする凶悪な犯行の第一段階だというのに、道行く人は妬ましそうに、あるいは羨ましそうにちらちらと視線を送るだけ。巡回中のパトカーだって素通りするに違いない。
状況や外見に恵まれているからこそ、チータは思うまま恋愛を謳歌できるのだろう。つまり、世に溢れる平凡な女性が一人、また一人と減っていくのである。
裏通りを進んでいくと、ラブホテルに行き着いた。我慢の限界も近かったため、迷わずそこに足を向ける。最もシンプルな部屋を選んだ。妙に手馴れていた。
ラブホテルにしては控えめのダブルベッドに女性を横たえる。最初にひっつめた髪を解こうとしたが、緊縛するのに邪魔かと思い直し、そのままにしておいた。結局、寝苦しそうな帯を少し緩める以外は一切手を出さず、自然と目覚めるのを待つつもりらしい。
これから愛を囁くのなら、チータにも準備が必要である。
どこに隠しておいたのか、愛用の縄を取り出しサイドテーブルに置く。そしてその場で服を脱ぎ、ベッドから少し離れたソファに放る。ガラス張りの浴室に裸で入り、身を清める。ボリュームのあるバスタオルで水気を取り、バスローブを腰に巻きつけ浴室を出た。洗練され尽くした上半身を惜しげもなくさらしている。性的行為にまるで興味を示さないというが、ならばこの色気はどこから放たれているのか謎である。
「ん……」
女性の瞼が震えた。
「んー……?」
気怠そうに身を起こした女性は、ベッドの足元に立つチータと目が合った。視線をそっと左右に振る。分かりやすい内装をしているため、利用したことがあれば即座にピンとくるはずだ。おそらく意識を失う前のことも思い出したのだろう、女性はさっと顔色を変え、逃げようとした。しかし、彼女の足裏が床につくことはなかった。チータの手によって再びシーツの海へと押し戻されたのだ。
「嫌! 離して!」
チータは答えない。彼の耳はよく出来ていて、都合の悪いことは伝達されないのである。
暴れる女性の両腕をひとまとめにし、片手で封じる。体重は極力かけずに腰をまたぎ、ばたつく足からのダメージを回避する。
「あなた誰! なんで、こんな――ひっ」
打開策を求めて視線を彷徨わせた女性は、不運にもサイドテーブルの縄を見つけてしまった。チータはそれを、空いた片手で取った。
「いやあああ!」
女性の悲鳴を皮切りに、チータの誰にも理解されない告白が始まる。
肢体を縛られた女性。上品な着物は、中心からすっぱりと切り開かれている。下着も意味を成さない。
――嗚呼、美しい。
白く冷たい肌。手を這わすと小さな振動が伝わる。首筋を撫でると粟立つ。いい反応だ。チータは嬉しくなった。
女性がなにかを口走る。日本語ではあるけれど、言葉になっていない。
ベッドから降り、ソファに近寄る。放ったままの上着をまさぐりナイフを取り出す。
女性がなにかを口走る。形ある声は絶え間ない。
再び跨る。今度はナイフを片手に持って。
薄暗い照明の中で、鈍く反射する磨き上げられたナイフ。告白のためだけに誂えた、欠かすことのできない物。
これまでチータが恋した女性は皆、ここに来て初めて、本当の意味で恐怖する。
ひたり。寝かせたナイフの刃が、女性の鳩尾に触れる。
女性はチータの真意に気付いてしまった。自らの立場を知り、そして絶望した。傍らに、死を感じていた。
チータが笑う。
「ああアあああアあアア!」
絶叫。
すっと伸びる傷口は深い。鮮血の飛沫がチータの上半身を濡らし、腰のバスローブに染み込んでいく。
愛している。その言葉の代わりに再びナイフを差し込む。
愛している。その言葉のつもりで何度も肌を引き裂く。
愛している。愛している。愛している。ひとつひとつの殺傷行為が、情熱的な愛の告白。
「――」
いつしか女性は絶命した。
チータは恍惚としていた。表情はあまり変わっていないが、彼は今とても喜んでいた。なぜなら、またひとつ恋愛が成就したからである。彼の想いは成し遂げられた。
女性の血で塗れた胸を撫でると、ペンキのように色がかすんだ。垣間見えた傷口からは、未だ血が溢れ出ている。脈動を止めた青白い肌によく栄えた。
錆びたにおいに満ち満ちた空間。愛した女性に包まれている錯覚。
なんという幸福。
なんという充足。
「嗚呼」
チータはそっと喜色の滲んだ吐息を零し、そして物言わぬ骸にキスをした。
■ □ ■ □
「ねえ、チータ」
ネズミに呼ばれて振り返る。
ふふふ、と笑い声。
「君は傑作だね!」
適当に書きなぐると大体こんな感じになる。ネズミみたいに貧弱な頭脳タイプ(しかも黒い)が高確率で出演する。