表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

【第5話】企業理念


 私は歯切れの良い返事をして、出水さんが差し出した一式のセットを受け取った。自分の顔写真が載った社員証を首からかけると、新たなスタートを切った感覚に胸が沸き立つ。


 パソコンの設定をする前に開けた小箱には、紛れもなく私の名刺が束になって入っていた。一枚取り出して確認してみる。白地に黒文字というシンプルな名刺ながら、それでも「㈱epoch making 真鍋理歩」という文字が際立って見えるようだ。加えて会社の電話番号やメールアドレスも記載されていて、早くこれを誰かに配りたい気持ちにもなる。


 裏面には何も書かれていなかったが、でもこれから配給した映画などといった実績が増えていくのだろう。早くここにも何かを書けるようにならないとなと、私の心はより引き締まった。


 それからも私が他の二部屋である会議室や休憩室を確認したり、マニュアルを手にパソコンとにらめっこしていると、四谷さんや立石さん、木蓮さんも続々と出社してくる。みんな今日がepoch makingとしては初めての出社日ということもあって、少しソワソワした表情を浮かべていて、それが私にはどこかおかしく見える。


 全員が自分の席について、パソコンの設定が完了したことを、きちんと言葉にして伝え合う。


 それを確認した出水さんが声をかけて、私たちはひとまず立ち上がった。初めての全体朝礼に、私は気持ち背筋を伸ばす。


「じゃあ、みんな改めて。おはようございます」


 そう全体朝礼を始めた出水さんに、私たちの「おはようございます」という返事も、一拍置いて自然と揃った。その光景に私はまたおかしくなって、少し笑いそうになってしまう。


「まずはそれぞれの業務内容の確認なんだけど、初日だし、まずはみんな制作会社や映画館への連絡が主になると思うから、今日は省略しよっか。その代わりに、まずは企業理念の確認から始めよう。私が言うから、みんなちゃんと聞いててね」


 口々に「はい」と返事をする私たちの声は、今度は揃わなかった。出水さんは私たちの顔を今一度見回すと、「じゃあ、言うね」と改めて前置きをしてから告げる。


「私たちepoch makingは観客となる人々に良質な映画を届け、日々を生きる糧としていただくために、以下のことを約束します。私たちは公正な取引を旨とし、関係する全ての会社や機関に最大限の便益をもたらします。私たちは配給から宣伝を自社で行うことで、スピーディーで風通しの良い仕事を実現します。私たちはコンプライアンスを遵守し、透明性のある仕事及び経営を行います。これらの約束を通じて、実力・実績ともに日本一の映画配給会社となることを、ここに誓います」


「以上です」と言い切った出水さんが小さくお辞儀をすると、私たちも誰からともなく頭を下げ返した。


 出水さんが考えた企業理念は、私たちもメールで送られてきていたから、事前に目を通している。それは出水さんが親睦会のときに口にした展望そのもので、大きく出たなと私は思ったのだが、それでも改めて出水さんの口から聞くと、実現させなければならないと思う。自分はもうepoch makingの一員なのだとも、改めて自覚した。


「今言った企業理念は今日中に印刷して、壁に貼りだしておくから。みんな常に意識しながら仕事をしてね」


「はい!」


「よし。じゃあ、仕事を始めよっか。みんな、改めてよろしくお願いします」


「よろしくお願いします」最後に、私たちはもう一度声を揃える。その響きに、私の胸には新鮮な風が吹き抜けた。


 私たちはそれぞれの席に着く。そして、私はパソコンを操作して、エクセルのファイルを開いた。そこには事前に出水さんがまとめてくれた日本の映像制作会社が、リストとなって表示されていた。映画の制作の実績がある会社でもその数は数百に及んでいて、それだけこの国に制作会社があることに、私はリストを眺めているだけで軽く圧倒されてしまう。


 まずはこれらの全ての会社に、全員で分担して「会社を始めました。以後よろしくお願いします」といったメールを送るのが、私たちの今日の仕事だ。


 全員で分担すると言っても、その数は一人当たり一〇〇社以上もあり、もちろんその全てにBccで同じメールを送るわけにはいかない。事前に出水さんが用意してくれたテンプレートも活用しつつ、それでも一社ごとに微妙に文面を変えて、私たちはメールを送り始める。


 やっていること自体は、西宝にいた頃とほとんど変わらない地味な作業だ。でも、一社ずつメールを送りながら、不思議と私の心は弾んでいた。


 何かが新たに起こりそうな。そんな予感がひしひしとあった。





 epoch makingが事業を始めてから、一週間が経った。その間も、私たちは慌ただしく働いていた。


 メールで挨拶を送るのは、何も映像制作会社だけではなくて、日本中の映画館や映画祭実行委員会、マーケティングリサーチ会社や配信やビデオといった二次利用を担ってくれる会社、はたまた出水さんの知り合いだという個人の映画監督やプロデューサーまで多岐にわたり、映画産業に関わるプレイヤーがこれだけ多いことに、私は改めて圧倒される。


 四谷さんや立石さんは、得意の語学を生かしてさっそく海外の小規模な映画祭に向かっていっていたし、木蓮さんも元々配給会社にいたからか、今まで付き合いがあった映画館への挨拶周りに奔走している。


 オフィスには全員が揃うことの方が少なくて、それは映画配給会社がそれだけ各地を駆け巡る仕事であるという証明だった。出水さんも何かと付き合いがあるなかで、私だけが会社にいる時間が長い。メールをチェックしてみても、一応どの企業も簡単な返信は送ってくれているものの、そこから先が続かない。


 五月の末までには、私も何か買い付ける候補となる映画を見つけていなければならないものの、それでもその兆しさえ見えない現状に、私は始まったばかりなのに少しずつ焦り始めてしまっていた。


「今日もありがとうございました。お先に失礼します」


 それは私が今日も目に見える成果を出せずに、一日の業務を終えてしまった日のことだった。


 定時を回って退勤しようと席を立つ。残業がまだないのはありがたいが、それでもなかなかうまくいかない仕事に、へこむ部分は確かにある。


 そんなときだった。まだ仕事をしている出水さんが声をかけてきたのは。


「ああ。理歩ちゃん、お疲れ。今日この後って時間ある?」


 出水さんがこうして声をかけてくれるのは、会社が始まって以来初めてのことだったから、私は反射的に「はい、大丈夫ですけど」と答えていた。


 今日はもともと、帰ったらサブスクリプションサービスで配信されているドラマを見ようと思っていたけれど、それは今日でなくてもできるだろう。


「そう。だったら、一緒にご飯行かない?」


 顔を綻ばせて言った出水さんに、私も特にためらうことなく「はい、ぜひ」と応じる。コンビニエンスストアの惣菜やカップラーメンには、飽き始めていたところだった。


「ありがと。じゃあ、私の方の仕事ももうすぐ終わるから。それまでちょっと待っててくれる?」


 私が「はい」と頷くと、出水さんは目を細めてから、仕事に戻っていった。私は出水さんの仕事が終わるまで、なんとなくスマートフォンでSNSを見たりして時間を潰す。それでも、出水さんが仕事を終えて「お待たせ。じゃあ、行こっか」と私に再び声をかけてくるまでには、一〇分もかからなかった。


 オフィスを出た私たちは、一路最寄り駅へと向かう。大通りの桜はもう葉桜になり始めている。


 歩きながら「何か食べたいものある?」と訊かれて、少し図々しいかなと思いつつも、私は今の気分に従って、「ラーメンとか食べたいかもしれないです」と答える。


 すると、出水さんはそんな私の思いを汲んでくれて、駅前の商店街にある中華料理チェーンを選んでくれた。出水さんもこういう店行くんだとも思ったけれど、それでも飾らない選択が今の私にはありがたかった。


 夕方の六時を回った段階では、夕食の時間にはまだ少し早いのか、店内は比較的空いていて、私たちはすぐにテーブル席につくことができた。メニューを見ていくつかあるラーメンの中から、私は野菜タンメンを選ぶ。出水さんはチンジャオロース定食とビールを頼んでいた。


 自分の最寄り駅から自宅までは自転車で来ているから、お酒を呑むわけにはいかなかったけれど、私も合わせるようにノンアルコールビールも頼む。


 注文を済ませるとわりあいすぐにドリンクは運ばれてきて、ノンアルコールビールをグラスに注いだ私は、出水さんの中ジョッキと乾杯をした。小気味いい音が浮かんで消える。


 口をつけると、ノンアルコールビールの苦味に今日の疲労が溶けていくようだった。



(続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ