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【第4話】四月一日


 東京もようやく寒さが和らいで、公園の桜も咲き始める頃。私は相変わらず西宝のオフィスに出勤していた。


 でも、宣伝資料を作ったり興行会社に連絡したりすることもなく、私は書類のコピーやシュレッダーがけという雑務を行っていた。こんな日まで普段と変わらない業務をしていると思うと、少し乾いた笑いさえ出てくるようだ。


 それでも、つつがなく自分に割り当てられた業務を終えた私は、昼時になるとビルの七階にある社員食堂へと向かった。一番好きなメニューである生姜焼き定食を注文する。もうこの味も食べられなくなるのだなと思いながら受け取って、テーブルに着く。


 軽く手を合わせて、食べようとしたその瞬間だった。一人でいる私に声がかけられたのは。


「真鍋、ここ座ってもいいか?」


 少し驚きながら顔を上げると、そこには津島(つしま)さんが立っていた。手に持つきつねうどんから、温かな湯気が立ち昇っている。


 入社してからの先輩である津島さんの呼びかけを私は無下にはできず、「はい、大丈夫です」と答える。「ありがとな」と言って私の正面に腰を下ろした津島さんは、きつねうどんに七味唐辛子をたっぷり振りかけてから、口にした。


「ほら、真鍋も見てないで自分の食えよ」


 津島さんにそう促されるまま、私は生姜焼き定食に箸をつけ始めた。相変わらず甘いたれに生姜の風味が効いていて、食べ始めたそばから食欲をそそる味だ。


「真鍋も今日で退社するんだなぁ」


 津島さんがそう口にしたのは、お互いに自分の料理を三口ほど食べ進めた頃だった。しみじみとした口調に、私は自分で決めたはずなのに、後ろ髪を引かれるような思いを味わう。


「はい。津島さんには入社する前にも、そして入社してからも、色々とお世話になりました」


「ああ。俺たちが初めて会ったのは、まだお前が就活生のときだったよな。OB訪問でウチを訪ねてきたのが、つい昨日のことみたいだよ」


「はい。その節はたいへんお世話になりました。津島さんから実際の仕事内容やタイムスケジュール等を聞けたことは、大いに参考になりました。『若手のときから責任ある仕事を任せてもらえる』と聞けたことが、西宝を選ぶ大きな決め手になったぐらいです」


「そうだったな。でも、すまんな。お前には雑用ばっかやらせちまって。俺はもっとお前に仕事を任せたかったんだけど、加納(かのう)さんがなかなか認めてくれなくてな」


「それは、はい。正直堪えました。もちろん、就活では企業も私たちもお互いに良い部分しか見せない。現実はそんな甘くないとは分かっていたつもりだったんですけど、ここまでとは正直予想してなかったです」


「そうだな。俺もお前は過小評価されてると思ってたから。不満に感じるのも無理はないと思う。でも、だからってネットとかでウチの悪口書くのはやめてくれよな」


「大丈夫ですよ。私、そんな子供じゃないですから。匿名で悪口書いて憂さ晴らしするなんて、そんな幼稚なことはしないです」


「そっか。じゃあ、助かるわ」


 ほっとしたようにこぼした津島さんを見ると、私はこの人の信頼は裏切れないなと思う。もともとそんな気はさらさらなかったけれど、西宝に対する愚痴は自分の中に留めておこうとより感じる。


 もう津島さんと一緒に働くことはないと思うと、今になって寂しさが込みあげてくるようだ。


「で、どうなんだ? ウチを退社したら、出水さんが新しく作る配給会社で働くんだろ? どんな作品を配給するのかって、もう決まってたりするのか?」


「いえ、まだです。私たちでもまずどんな映画を買い付けるべきか、色々情報収集はしてるんですけど、まだ会社が動き出す前だと動くに動けなくて。本格的な交渉や検討は、来月になって会社が正式に動き出してからになると思います」


「そっか。なんてったってゼロからのスタートだからな。色々大変だろ?」


「まあそれはそうですけど、それも私が望んだことなので。今はやってやろうっていう気になってます」


「そうか。頼もしいな。また買い付ける作品が決まって、公開の目途が立ったら俺にも教えてくれよ。時間が合えば観に行きたいなって思うから」


「はい、絶対ですよ」


「まあ、約束はできないけどな」そう言いながらごまかすようにはにかんだ津島さんが、私にはいじらしく見える。


 私よりもよっぽど忙しい津島さんのことだから、観てくれる可能性はそれほど高くなさそうだったけれど、それでも津島さんならたとえ徹夜明けでも、私たちの会社が配給する映画を観に行ってくれそうな気がした。


「なあ、真鍋。出水さんの会社に行っても頑張れよな」


「どうしたんですか。急に改まって。言われなくても頑張りますよ」


「ああ。お前が粘り強くて、努力の人だってことは俺も知ってるから。雑用しか任せてもらえてないなかでも、本読んだり映画観たりして、研鑽を重ねてたことは俺も分かってるつもりだから。積み重ねてきた努力を生かして、出水さんの会社でこそいい仕事をしてくれよな」


「ありがとうございます。津島さんにそう言ってもらえると、ますますやる気が出てきました」


「ああ。でも、あまり根詰めすぎるなよ。オーバーワークは不調のもとだから。ほどほどに頑張って、何か大変なことや悩み事があったら、俺に相談してくれてもいいんだからな。俺もできる限り、お前からの相談には答えるから」


「はい。じゃあ、そうなったときは遠慮なく連絡させてもらいます。たとえ、夜の〇時でも」


「そうだな。でも、あまり真夜中はやめてくれよ。俺だって、寝たいときには寝たいんだからな」


「分かってますって。ちゃんと津島さんの都合も考えますよ」


「ああ。じゃあ改めて頑張れよ。俺もお前らの会社がどんな仕事をするのか期待してるから。うまくいくように応援してるよ」


「はい! ありがとうございます!」


 観客からしてみれば、西宝が配給する大作も私たちが配給するであろう規模の小さな作品も、同じ一本の映画という意味では変わらない。上映期間も重なるだろうし、一人の観客が観られる映画の数には限りがある。


 だから、私たちは津島さんも在職している西宝とも、競い合わなければならない。


 でも、それが分かっていてもなお、私は津島さんの言葉に純粋な喜びを感じていた。応援してくれる人がいると、それだけで頑張れる気がしてくる。


 声を弾ませた私に、津島さんも穏やかな表情を見せてくれている。その顔が一面の窓から射しこむ日の光に照らされて、ささやかに輝いていた。





 車窓に見慣れない街並みが映る。今までとは反対方向の電車に乗っていることに、私は本当に西宝を辞めたのだなと、今さらながらに思う。車内にコートを着ている人はもうほとんど見られず、移り変わった季節に身が引き締まる。


 四月一日。今日は私にとってまた新たな出社日で、株式会社epoch makingが事業を始めるまさにその日でもあった。


 電車を乗り換えて、私は初めて訪れる私鉄の駅で降りる。駅前の商店街を抜けると、街道に並んだ桜並木が満開の花を咲かせていた。思わず写真を撮ってSNSにアップしたくなる風景の中を、まっすぐ突っ切っていく。


 スマートフォンのナビを参考にしながら歩いていくと、だんだんと辺りは何の変哲もないありふれた住宅地に変わっていく。


 そうして、駅から歩くこと一五分ほど。私は五階建てのマンションの前に到着していた。白い外壁は少しくすんでいて、建てられてからそれなりの年月が経っていることを思わせる。


 もちろん、私は誰かを訪ねにきたわけではない。epoch makingのオフィスは、この最寄り駅からは少し距離があるマンションの一角にあった。


 外階段を使って二階に上がる。オフィスとなる部屋は廊下を進んだ先にある二〇五号室だ。表札に「㈱epoch making」と書かれた紙が貼ってあるのを確認してから、私は軽くノックをしてからドアを開けた。


 短い廊下を抜けると、すぐに主な仕事場となるリビングに辿り着く。まず目に入ったのは一台の大きなテーブルだ。長方形のテーブルの上には人数分のノートパソコンや書類や筆記具をしまうラックが置かれていて、間に仕切りがない構造が自由な雰囲気を醸し出す。プリンターや空気清浄機など必要なものは一通り揃っていて、窓際に置かれた観葉植物も青々とした葉をつけている。


 本棚にはまだ何も入っておらず、その上の壁にはまだ何の掲示物も貼られておらず、今日から仕事が始まるという真新しい空気を帯びている。いずれはこの壁にも自分たちで配給した映画のポスターが飾られると思うと、今からワクワクしてくるようだ。


 玄関に一番近い自分の席に荷物を置いて座ろうとすると、壁際にあるドアが開いて出水さんが出てくる。薄黄色のカットソーがカジュアルな印象だ。


「おはよう、理歩ちゃん。来るの早いね。まだ出社時間まで三〇分もあるのに」


「はい。ドキドキして、いてもたってもいられなくなってしまって。早すぎましたかね?」


「ううん。全然そんなことないよ。ちょっと待っててね。今必要なもの渡すから」


 そう言って出水さんは自分の席に向かっていき、ラックを開けていた。そして、いくつかの物を持って、私のもとに戻ってくる。


「えっと、まずこれが社員証ね。出社時と退社時に、本棚の上にある打刻機に必ずかざしてね。次にこれがパソコンの設定マニュアル。読んで、分からないことがあったら遠慮なく訊いてね」


 出水さんの説明を受けながら、それでも私の目は灰色をした小さな箱に向いてしまう。その中身は何となく想像がついたけど、それでも気になって仕方ないという表情をする私に、出水さんは優しく微笑んでいた。


「そして、これが今日から理歩ちゃんが使う名刺ね。とりあえず一〇〇枚刷っておいたから、足りなくなったらまた言ってね」



(続く)

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