【第1話】一二月三〇日
「じゃあ、真鍋さん。お先に失礼するね。よいお年を」
先輩社員である中沢さんが、わざわざ私の机までやってきて言う。私もパソコンから目を離して「よいお年を」と返す。
中沢さんがオフィスを後にすると、私は再びパソコンに向かって仕事を続けた。年明けに予定されているマスコミや映画評論家に向けた試写会の案内状を、専用ソフトを使って作り上げていく。
今日は一二月三〇日で、年内最後の出勤日だ。年明けは三日からの仕事になるから、今日のうちにキリのいいところまで終わらせておきたい。
キーボードを打つ音が、オフィスに響く。夜の一〇時を回って、今室内には私しかいなかった。
そのままパソコンに向かい続けて、三〇分ほどが経った頃だろうか。一つ区切りの良いところまで進めた私は、いったんパソコンから目を離して、深く息を吐いた。疲れ始めている目をこする。
ここ一週間、私は毎日残業をしていた。
どうしてこうなったんだろう。窓の外に広がる夜景をぼんやりと眺めながら、私はふとそう思ってしまう。
映画好きだった両親の影響で、私は幼い頃から毎日のように映画を観ていた。そんな私が映画業界に憧れたのは自然な話で、高校では映画研究会に入って学生映画を作ったりもした。
でも、それは監督した私でさえ見るに堪えない代物で、作り手には向いていないと自覚するには三年間は十分すぎた。
それでも、映画業界への憧れは捨てきれず、だったら裏方に回ろうと、私は映画の専門学校に入って必死に勉強を重ねた。そして、懸命な就職活動の成果もあって、私は業界でも最大手である西宝に入社できた。
これで一生好きな映画に関わる仕事ができる。そう感じた日の喜びを、私は今も鮮明に覚えている。
しかし、入社して配給部門に配属された私を待っていたのは、雑用雑用そして雑用の日々だった。先輩社員のフォローに回り、与えられるのは私でなくてもできるような雑用ばかり。もちろんそれも映画の配給には必要な仕事だとは分かっていても、正直言ってやりがいには欠けてしまう。
入社して三年が経っているのに、私はまだポスターや広告といった、宣伝作業の中核には全然タッチできていない。その上業務時間は長く、今日も夜遅くまで残業をしている。
そりゃ最初のうちは、下積みが重要だと分かっていたつもりだ。でも、こんな日々がいつまで続くのだろうと考えると、私は心許ない気持ちになってしまう。入社する前に抱いていた希望や憧れは、進歩のない毎日にすっかりすり減っていた。
「ああ、理歩ちゃん、お疲れ様」
束の間物思いに耽っていた私は、オフィスに人が入って来たことにさえ気づかなかった。声をかけられてハッとしたように顔を向けると、そこには私の職場の大先輩である出水さんが立っていた。相変わらず背筋がきりっと伸びていて、手には缶コーヒーが握られている。
「お、お疲れ様です。出水さん。でもさっき帰られたのに、どうしたんですか?」
「いや、ちょっと忘れ物をしちゃってね。それでオフィスにまだ明かりがついてるのが見えたから、ちょっと声をかけて励ませたらなって思って。はい、これあげる」
出水さんが差し出してくれた缶コーヒーを、私はありがたく受け取った。手にしてみるとまだ買ったばかりなのか確かなぬくもりがある。「微糖」とパッケージに書かれているのも私好みだ。
「ありがとうございます。おかげでもう少し頑張れそうです」
「うん。それとさ、残業してるところ手を止めちゃうようで悪いんだけど、今ちょっと話できる?」
「えっ、でも出水さん、忘れ物を取りにきたんじゃ……」
「それは席に行けば、一分もかからずに終わることだから。もちろん理歩ちゃんがすぐに仕事を終わらせて、少しでも早く帰りたいなら、無理強いはしないけど」
「い、いえ、大丈夫です。あと三〇分くらいで終わりそうなので」
「そう。ならよかった」出水さんは、澄ました表情をしている。
正直なところ、私はさっさと今取りかかっている仕事を終わらせてしまいたかったが、腹具合はまだ持ってくれそうだったし、終電の時間にも余裕がある。少しぐらい帰るのが遅くなっても、一人暮らしの身には大して支障はないだろう。
「どう? 理歩ちゃん、最近仕事は? 充実してる?」
「はい。とても充実していますし、楽しいです。三年目にもなってできる仕事も段々と増えてきましたし。何より大好きな映画の仕事に関われていることに、大きな喜びとやりがいを感じています」
「そう? 本当に楽しいと思ってる?」私の返事に含まれていた嘘を敏感に察知したのか、出水さんは間髪入れずにそう訊き返してきた。
だけれど、まだ駆け出しの私には愚痴や不満はこぼせるはずがない。
「は、はい。心から楽しいと思ってますよ」
「理歩ちゃん、別に怒ったり責めたりしないから、本当のことを言ってくれる? 来る日も来る日も雑用に追われて、夜遅くまで残業をすることも決して珍しくない。いくら映画が好きだとはいえ、さすがにちょっと堪える部分はあるでしょ?」
私としては不満を顔に出さずに、平然とした表情で働いていたつもりなのだが、出水さんは私の顔から不意に覗くやりきれなさを見ていたのだろうか。出水さんがそう簡単に怒るような性格ではないことは、私も今まで一緒に働いてきて知っている。
だから、少しためらいはしたけれど、私は本音を吐露することを選んだ。
「ま、まあそれはほんの少しですけど、ありますね。でも、この仕事が大変なのは知ってましたし、これからバリバリ仕事をしていくうえで、今は力をつけるべき時期なのは分かっているので。大変だなんて言ってられないですよ」
「そう? そんなに無理しなくてもいいと思うけどな。理歩ちゃんには、もっと力を発揮できる環境があると思うけど」
「……それは、私がこの会社を辞めた方がいいってことですか?」
「そういうことじゃないよ。いや、そういうことでもあるんだけど」
イマイチ要領を得ない出水さんの態度に私は訝しんでしまう。出水さんも、私のことを未熟すぎると思っているのだろうか。
私が少し疑わしい目を向けていると、出水さんは「あのね」と言葉を継いでいた。
「私ね、来年の春に会社を立ち上げるの」
出水さんが口にしたことがまったく思いもよらなくて、私は小さく口を開けてしまう。驚きのあまり「それってウチから独立するってことですか?」と、確認する必要のないことを口走ってしまう。
「うん、そうだよ。インディペンデント系の映画を洋邦問わず届けていく。そんな配給会社を私はやりたいんだ。ウチで配給するような大作や話題作じゃなくても、良い映画は世界中にたくさんあるからね」
「それは素敵ですね」
「うん、今社内外の色んな人に、一緒にやらないかって声をかけてるとこ。それでなんだけどさ、理歩ちゃん、もしよかったら私と一緒に来ない?」
出水さんの提案が輪をかけて予想だにしなかったことだったから、私は耳を疑ってしまう。「私ですか!?」という反応は、紛れもなく本音だ。
なのに、出水さんは相好を崩してはいない。自分が言ったことを少しも疑っていないかのように。
「そう。理歩ちゃんがいいの。理歩ちゃんだって、いつまでも今の雑用係みたいな仕事してたくないでしょ?」
「いや、それは……。でも、どうして私なんですか? 私よりも能力がある人なんて、ウチには他にいくらでもいるのに」
「それは、仕事をしていくうちに身につけていけばいい話だよ。それ以上に理歩ちゃんには、決して人が教えることができないセンスがあるじゃない」
「センス、ですか?」
「そう。理歩ちゃん、就活のときに自分で映画のレビューをしているブログをやってるって言ってたでしょ。私、それ見せてもらったんだ」
「本当ですか?」と言いながら、私は顔が赤くなってしまう。そんなものは、一時の熱病にも似た若気の至りなのに。他にコミュニケーション能力とかリーダーシップとか働くうえで必要な能力をアピールしていた人に比べたら、今でも顔から火が出てしまうし、そのブログだって入社して忙しくなってからは更新していない。
だけれど、出水さんは相変わらず微笑んでいて、そこに含みみたいなものは存在していないように私には見えた。
「うん。取り上げる映画のチョイスも良かったし、文章も上手で、着眼点も鋭かった。実際、理歩ちゃんのブログで知った映画を私も見てみたことがあるんだけど、すごく面白くて。センスある子だなって思ったんだ」
「いえ、そんなことないですよ。あれはただ単に、学生で時間を持て余してたからと言いますか……」
「そんな否定しなくていいよ。ねぇ、理歩ちゃん。よかったら私の会社で、そのセンス生かしてみない? 今のままじゃ、正直言って宝の持ち腐れだよ」
その出水さんの言葉に、私はかすかにでも心が傾くのを感じてしまう。今の雑用仕事に面白みを見出せていない部分は、私にも確かに存在していた。
「もちろん、理歩ちゃんの気が進まないっていうんだったらいいよ。ウチみたいな大手で働ける環境を手放したくないのも分かる。スタートアップは安定とは対極にあるし、給料だって今より多くは出せないかもしれない。人数も少なくなるだろうから、より幅広い業務をしてもらって、残業をすることもあるだろうし。もちろん努力はするけど、今よりも良い条件を提示することは、はっきり言って難しいと思う」
私を誘いながらも、その一方で飾らない現実をも知らせてくれることに、私は出水さんの誠実さを感じる。
私が働いている西宝は、映画業界では最大手の企業だ。そこからスタートアップに転職することには、きっと出水さんが言った以上のハードルがあることだろう。
ましてや私には、まだ何の実績もないのだ。そう簡単に、思い切った一歩を踏み出せるわけがない。
「まあ、そんなすぐに答えられるほど、簡単な決断じゃないよね。理歩ちゃんにとっては、それこそ人生を左右しかねない話なんだし。じっくり考えて決めてくれたらいいよ。たとえ、その答えがどうであっても、私は理歩ちゃんの意思を尊重するから」
私のどっちつかずの表情を読み取ったのだろう。出水さんは今この場で答えを迫ることはしなかった。私としても重大な決断だから、一回家に持ち帰って落ち着いて考えたい。
私が「はい、ありがとうございます」と返事をすると、出水さんは「じゃあ、よろしくね」と言って自分の机に向かっていった。でも、何かを探し回る様子はなかったから、忘れ物をしたというのも、私と話す口実かもしれないと一瞬思う。だけれど、それは思い上がりだと、私はすぐに小さく被りを振った。
「じゃあ、残り頑張ってね。よいお年を」最後にそう言い残して、出水さんはオフィスを後にしていった。再びオフィスに一人残されて、私は気を引き締め直すために、出水さんがくれた缶コーヒーに口をつける。甘さを控えた味は私の好みだったが、それでも心はすぐには落ち着かない。
降って湧いた話に、頭はぐらぐらと揺れていた。
(続く)




