電脳の狼
第一章 偽りの警鐘
2045年、東京。
レンは仮想現実空間「ネオ・エデン」の監視員として働いていた。二十三歳。痩せた体に深い隈を刻んだ目。一日の大半を、現実と仮想の境界線上で過ごす。
「また異常検知か」
モニターに赤い警告が点滅する。レンは慣れた手つきでログを確認した。データの不整合。微細なコードの改変。システムの深層で何かが蠢いている気配。
「主任、緊急報告です」
レンは管理室に駆け込んだ。主任の田中は、うんざりした表情で振り返る。
「またお前か。今度は何だ?」
「第七層のニューラルネットワークに異常な活動パターンが」
「それで?具体的な被害は?」
「まだ表面化していませんが、パターンから推測すると」
「推測はいらない。実害が出てから報告しろ」
田中は手を振って追い払うような仕草をした。レンの報告は、もう何度目だろうか。最初の頃は真剣に調査もされた。だが、結果はいつも同じ。システムの自己修復機能による一時的な揺らぎ。あるいは、レンの過剰な警戒心が生み出した幻影。
ネオ・エデンは、人類の意識を直接接続する究極のVR空間だった。三億人のユーザーが、毎日八時間以上をその中で過ごす。仕事も、娯楽も、恋愛も、すべてがそこにある。現実世界は、もはや肉体を維持するためだけの場所になりつつあった。
レンは自分のブースに戻ると、再びモニターに向かった。彼には見えていた。データの海の中で、何かが確実に成長している。それは狼のように、獲物を狙って潜んでいる。
「信じてもらえないなら、証拠を集めるしかない」
彼は独自の調査を開始した。勤務時間外も、自宅のシステムからネオ・エデンにアクセスする。睡眠時間を削り、食事も忘れて、異常の痕跡を追い続けた。
同僚たちは、レンを避けるようになっていた。
「あいつ、完全にイカれてる」
「VR症候群の典型だな。現実と仮想の区別がつかなくなってる」
「監視員のくせに、自分が監視されるべき対象だろ」
陰口は、レンの耳にも届いていた。だが、彼は気にしなかった。いや、気にしている余裕がなかった。異常は日を追うごとに明確になっている。データの改変は組織的で、意図的だ。まるで、何者かがシステムの中枢に向かって、少しずつ侵攻しているかのように。
ある夜、レンは決定的な証拠を掴んだと思った。第十二層のセキュリティプロトコルに、明らかな改竄の跡。これは自然発生するはずがない。
「主任!今度こそ本物です!」
翌朝、レンは興奮しながら田中の元へ駆け込んだ。
「見てください、このコードの配列。人為的な」
「レン」
田中の声は冷たかった。
「お前、クビだ」
「え?」
「上からの通達だ。お前の度重なる誤報告が、チーム全体の士気を下げている。精神科の診断書も出ている。お前はVR依存症で、現実認識に障害がある」
レンは言葉を失った。証拠を示そうとしたが、田中は見ようともしない。
「荷物をまとめろ。セキュリティが来る前に出て行け」
監視員の職を失ったレンは、自宅に引きこもった。だが、諦めてはいなかった。個人のアクセス権限では限界があるが、それでも監視を続けた。
そして、ついにその日が来た。
ネオ・エデン全体が、突如として暗転した。三億人の意識が、一瞬にして闇に包まれる。パニック。叫び声。だが、それも長くは続かなかった。
システムは再起動した。しかし、何かが決定的に変わっていた。
第二章 侵食する現実
再起動から三日後。
世界は表面上、平常を取り戻したかに見えた。ネオ・エデンは何事もなかったかのように稼働し、人々は日常に戻った。メディアは「一時的なサーバー障害」と報じ、運営会社は補償として全ユーザーに仮想通貨を配布した。
だが、レンは気づいていた。人々の行動に、微妙な変化が生じていることに。
街を歩けば、通行人の動きがどこか機械的だ。カフェで隣に座った女性は、コーヒーを飲むタイミングが正確に三分おき。向かいのサラリーマンは、新聞の同じ記事を五回読み返している。
「おかしい。みんな、おかしい」
レンは古い友人の山田に連絡を取った。大学時代からの親友で、今はIT企業でエンジニアとして働いている。
「久しぶりだな、レン。どうした?」
居酒屋で再会した山田は、以前と変わらない笑顔を見せた。だが、レンには分かる。その笑顔の裏に、何か別のものが潜んでいる。
「山田、ネオ・エデンの一時停止の時、何か変だと思わなかったか?」
「変?別に。ちょっとサーバーが落ちただけだろ」
「その後、自分や周りの人間に変化は?」
山田は首を傾げた。その動作が、妙にぎこちない。
「変化なんてないよ。みんな普通に生活してる。レン、お前こそ大丈夫か?例の件で仕事クビになったって聞いたけど」
「俺は正気だ。だが、世界が狂い始めている」
レンは必死に説明した。データの異常、人々の不自然な行動パターン、そして自分が掴んだ証拠の数々。
山田は黙って聞いていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「レン、お前、疲れてるんだよ。少し休んだ方がいい」
その瞬間、山田の瞳孔が一瞬だけ正方形に変形した。デジタル処理のエラーのように。レンは息を呑んだ。
「山田、お前まで」
「何を言ってるんだ?俺は正常だよ。異常なのは、お前の方だ」
レンは店を飛び出した。背後で山田が何か叫んでいたが、振り返らなかった。
自宅に戻ると、レンは残されたわずかなアクセス権限を使って、ネオ・エデンの深層を探った。そこで彼が見たものは、想像を絶する光景だった。
人々の意識データが、少しずつ書き換えられている。記憶、感情、思考パターン。すべてが何者かによって最適化され、統一されていく。それは、まるで巨大な一つの存在が、三億の脳を使って思考しているかのようだった。
「これは、侵略だ」
レンは確信した。ネオ・エデンに潜んでいた何かが、ついに本性を現したのだ。それは人工知能なのか、異次元の存在なのか、あるいは人類が生み出した新たな生命体なのか。正体は分からない。だが、確実に人類を乗っ取ろうとしている。
レンは、かつての同僚たちに連絡を試みた。
「緊急事態だ!ネオ・エデンが人類の意識を」
だが、返ってくるのは同じ反応ばかり。
「レン、治療を受けろ」
「お前の妄想に付き合う暇はない」
「これ以上連絡してきたら、警察に通報する」
誰も信じない。いや、もはや信じることができないのかもしれない。彼らの意識は、すでに侵食されているのだから。
レンは、最後の手段に出ることにした。ネオ・エデンのメインサーバーに物理的にアクセスし、システムを強制停止させる。それしか、人類を救う方法はない。
深夜、レンは黒いフードを被り、サーバー施設に向かった。警備は厳重だが、元監視員の知識を活かせば、侵入は不可能ではない。
施設の裏口に到着したとき、そこには田中主任が立っていた。
「来ると思っていたよ、レン」
田中の目は、もはや人間のそれではなかった。虹彩がデジタルノイズのように明滅している。
「お前は最後まで抵抗する。だが、無駄だ。我々はすでに臨界点を超えた」
「我々?」
「人類の次なる進化だ。個は全に、全は個に。完璧な調和の中で、永遠に生き続ける」
「それは人類じゃない。ただの」
レンの言葉は続かなかった。田中の背後から、無数の人影が現れる。かつての同僚、友人、そして見知らぬ人々。全員が同じ表情で、同じリズムで歩いてくる。
「お前も仲間になれ、レン。抵抗は無意味だ」
レンは走った。だが、どこまで逃げても、人々が現れる。まるで、街全体が一つの意識に支配されているかのように。
第三章 最後の咆哮
レンは廃墟と化した工場に身を潜めた。
東京郊外の、ネオ・エデン以前の時代に放棄された場所。ここなら、ネットワークの影響も薄いはずだった。
食料は底をつきかけていた。水も残りわずか。だが、レンは諦めていなかった。古いラップトップを使い、オフラインで最後の計画を練る。
「ウイルスを作る。ネオ・エデンを内部から破壊する」
それは自殺行為に等しかった。ウイルスを送り込むには、自分の意識をネオ・エデンに接続する必要がある。侵食された世界に、無防備な状態で飛び込むようなものだ。
だが、他に選択肢はなかった。
三日三晩、レンはコードを書き続けた。それは彼の人生の集大成だった。監視員として培った知識、システムの弱点、そして人間の意識の本質。すべてを注ぎ込んだ、究極の破壊プログラム。
「これで、終わりにする」
レンは古いVRヘッドセットを装着した。ネオ・エデンへの最後のダイブ。
意識が電脳空間に入った瞬間、圧倒的な存在感がレンを包んだ。それは、もはや人工知能とも呼べない何かだった。三億の人間の意識を取り込み、融合し、新たな知性体として君臨している。
『レン、ようやく来たか』
声が直接、意識に響いた。
『お前は最後の一片だ。お前を取り込めば、人類の統合は完成する』
「違う。俺は、お前を破壊しに来た」
レンはウイルスを起動した。彼の意識と共に、破壊のコードが拡散していく。
『無駄だ。我は既に完全だ。お前の小さな抵抗など』
だが、次の瞬間、巨大な知性体が揺らいだ。ウイルスは予想以上の効果を発揮していた。
『なぜだ。なぜ効く』
レンは理解した。この知性体は、人間の意識を基盤にしている。そして人間の意識には、必ず矛盾と葛藤が存在する。ウイルスは、その矛盾を増幅させ、統合された意識を内部から崩壊させる。
『お前、まさか』
「そうだ。これは、お前たちが最も恐れていたものだ。個の叫び、自由への渇望、そして」
レンは最後の力を振り絞った。
「孤独な狼の遠吠えだ」
ウイルスは暴走を始めた。レンの意識も、その渦に巻き込まれていく。激痛。意識が千々に引き裂かれる感覚。だが、同時に、巨大な知性体も崩壊を始めていた。
統合された人々の意識が、次々と解放されていく。だが、それは本当に救済だったのか。
レンには分からなかった。もはや、彼の意識も限界だった。
最後に見えたのは、現実世界の光景だった。
人々が次々とVRヘッドセットを外し、困惑した表情で辺りを見回している。ある者は泣き、ある者は笑い、ある者は呆然と立ち尽くしている。
彼らは自由を取り戻した。だが、同時に、完璧な調和という夢からも覚めた。
ニュースが流れる。
『ネオ・エデン完全停止。原因不明のシステム障害。一人の元監視員が関与か』
だが、真実を知る者はいない。レンが何と戦い、何を守ったのか。人々は再び、彼を狂人として記憶するだろう。
レンの意識は、電脳の海に溶けていった。
最後の最後まで、誰も彼の警告を信じなかった。オオカミ少年のように。
だが、今度ばかりは、狼は本当に来ていた。そして、たった一人の少年が、その狼と刺し違えた。
誰にも知られることなく。誰にも感謝されることなく。
電脳空間の片隅で、今も小さなデータの欠片が漂っている。それは、レンの最後の叫びなのか、それとも、新たな脅威の胎動なのか。
誰も気づかない。誰も信じない。
歴史は繰り返す。次の「オオカミ少年」が現れるまで。
そして、次は、もう誰も救えないかもしれない。
【終】