09.この時間が、どうか長く続きますように(グレン視点)
昼休みの教室。
隣にいるノエリア・カルディナート嬢の気配を、どこか現実味のないまま感じていた。
彼女が自分に声をかけた瞬間のことを、何度も思い返す。
そして、何度思い返しても……まだ、信じられなかった。
本当に、僕でよかったのだろうか。
教室には、名のある家の子息が揃っている。宰相の息子に、騎士団長や魔術師団長の息子、そして王太子殿下まで。
その中で、彼女は誰にだって声をかけることができたはずだ。
なのに。
──まさか、あの人が、僕を……?
一瞬、悪い冗談かと思った。
王太子殿下にやきもちを焼かせるための、演出ではないかと。
よく考えれば、最近の彼女は王太子殿下を避けていたはずだ。迷惑そうだったから、僕が嘘をついて割り込んだことだってある。
それでも、そう思ってしまうほど意外すぎたのだ。
でも、彼女は王太子殿下を、はっきりと拒んだ。
茶番ではなかった。あれは、紛れもない本心だった。
胸の奥が、熱くなる。
焦がれるような、でも同時に……怖くなるほどの想い。
彼女を見たのは、ずっと前だ。
一年生の頃、初めて登校した日。
教室の扉を開けた瞬間、そこにいた彼女は、光のようだった。
誰よりも整った姿勢、誰も寄せ付けないほどの冷たい美しさ。
自分なんかが手の届く相手ではないと、理解していた。
ただ、ほんのわずかな間でも同じ時間を過ごせるだけでいいと、自分に言い聞かせていたのに。
まさか今、自分が隣に座っているなんて。
僕は、子爵家の庶子だ。
母は平民で、僕は最近まで平民として育てられていた。
学園に通わせてもらってはいるけれど、仕送りは最小限。懐事情の厳しさから、日々、教師の雑務や準備手伝いで駄賃を稼いでいる。
式典の設営、器具の運搬、課題の印刷、棚の整頓。気づけば便利に使える生徒として、教師からもよく呼ばれるようになっていた。
……もしかすると彼女は、そんな僕を見ていたのかもしれない。
黙々と働く雑用係。気を利かせて誰の邪魔にもならない生徒。
いや、きっと、それだけのことだ。
僕を選んだ理由なんて、他にあるはずがない。
そう言い聞かせることでしか、この胸のざわめきを抑えられなかった。
──それなのに。
「……あなたって、ほんとうに不思議ね」
隣から届いた柔らかな声に、僕は思わず顔を上げる。
「僕が、ですか?」
彼女は頷きながら、どこか探るような目をしていた。
「ええ。落ち着いてるし、空気も読めるし……一緒にいて、安心できるの。こんなふうに思う相手、学園にはそう多くないわ」
その言葉に、時間が止まったような気がした。
安心できる、と。僕といて?
心臓の鼓動が、喉元までせり上がってくる。なのに、声が出なかった。
僕はそんなことを言われたことなんて、一度もなかった。
控えめで、目立たず、空気のように扱われてきた自分が。誰かに「一緒にいて安心できる」なんて言われる日が来るなんて。
……嬉しい。けれど、信じてはいけない。
それはただの世辞かもしれないし、単に僕が扱いやすいからなのかもしれない。
それでも。
「……そう言っていただけるのは、光栄です。僕なんかで、足を引っ張らなければ良いのですが」
精一杯、落ち着いた声で返したつもりだったけれど、たぶん震えていた。
「引っ張るなんて、思わないわ」
彼女はきっぱりと、けれど優しく言ってくれた。
「あなたと組めてよかった。そう思ってるのは、私のほうよ」
その言葉は、まっすぐに胸へ突き刺さる。
──こんな気持ちは、知らなかった。
光に触れたような気がした。
彼女の笑顔は、眩しくて、柔らかくて……手を伸ばせば壊れてしまいそうなほど美しいのに、すぐ隣にあった。
……この時間が、どうか長く続きますように。
心の中で、そんな子どもじみた願いをしてしまうくらいには、僕はもう──。
けれど、その余韻は、突然の声によって中断された。
「さて、明日からの本格的な育成に向けて、まずは《土》を用意してもらう」
前方の教壇から響いた教師の声に、僕は現実へ引き戻される。
「調達手段は三種類。配布される基本土を使っても構わないし、購買部で好みのものを購入してもいい。山の裏手で採集してくるのも許可されている。どれを選ぶかは、各ペアの判断に任せる」
教室がざわめきに包まれる。周囲の生徒たちが口々に話し始める声が、遠くに聞こえた。
隣で、ノエリア嬢も鉢をじっと見つめている。
その横顔は、やはりまっすぐで、揺るがなくて、どこまでも凛としていて──。
僕はもう一度、自分の胸に問いかけた。
この手で、守れるだろうか。
この距離のまま、彼女と歩いていけるだろうか。