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【書籍化・コミカライズ決定】ワンオペ母が悪役令嬢になったら、攻略対象が地雷にしか見えない件  作者: 葵 すみれ
第二章 杖作成

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17.褒められるべき場面では、特に何も求めないのですね

 岩を引きずるような音とともに、それがゆっくりと姿を現す。

 灰色の体毛に覆われた、大きなネズミのような魔物だった。

 長い尾が床を擦り、黄色い目がこちらをじっと見据えている。


 逃げる気配がない。

 低く唸りながら、魔物はじり、と前足を進めた。


「……っ」


 隣で、小さく息を呑む音がした。

 ユリウスのペアの女子生徒だ。

 肩が強張り、指先がわずかに震えている。

 けれど、その足は確かに前へ出ようとしていた。


 出発前に、彼女が口にしていた言葉を思い出す。

 もし何かあれば、自分が盾になると。

 その覚悟は本物だったのだろう。


 だが──彼女の靴先が床を踏むより早く、ローレンス殿下が前に出ていた。


 あまりにも自然な動きだった。

 気づいたときには、すでにそこに立っている。

 迷った様子はない。ただ当たり前のように、私たちと魔物のあいだへ立つ。


「下がれ」


 短く、それだけ告げる。

 その背中の向こうで、魔物がもう一歩近づいた。


 ローレンス殿下が静かに手を上げる。

 その動きに応じるように、淡い光が広がった。

 私たちの前方に、防御魔法の膜が展開される。

 透明な壁のような魔力が、殿下の前で空気を押し広げた。


 魔物が低く唸り、床を蹴る。

 灰色の巨体が一気に距離を詰め、そのまま防御膜へ突っ込んできた。


 次の瞬間、鈍い衝突音が坑道に響く。

 見えない壁に叩きつけられ、魔物の体が弾かれたのだ。

 勢いを失った体が石床を滑り、長い尾が床を打って大きく揺れる。


 それでも魔物はすぐに体勢を立て直し、低く唸りながらこちらを睨みつけた。

 だが、防御膜の向こうにいるこちらへ踏み込むことはできない。


 私はその横へ半歩進み出る。

 坑道の壁は乾いた岩肌で、燃え広がるようなものはない。

 威嚇だけなら、炎を使っても問題はない。


 指先に魔力を集める。

 掌の奥で、熱がゆっくりと膨らんでいく。


「──燃えなさい」


 小さく呟いた瞬間、炎が弾けた。

 赤い光が坑道を満たし、熱がふわりと広がる。

 暗かった岩壁が赤く照らされ、壁に映った影が大きく揺れた。


 魔物が鋭く鳴く。

 前へ出ようとしていた足が止まり、体がわずかに引く。

 炎をもう一度揺らすと、火花がぱちぱちと散った。


 洞窟鼠は一歩、二歩と後ずさり、やがて身を翻すと坑道の奥へ駆け去っていった。

 石を打つ足音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなる。

 坑道には、揺らめく炎の残光と、静かな空気だけが残った。


 魔物の足音が完全に消えると、坑道には静けさが戻る。

 張り詰めていた空気が、ふっと緩む。

 誰かが小さく息を吐き、それにつられるように周囲にも安堵の気配が広がった。


 ローレンス殿下が振り返る。

 私たちを順に見渡し、異変がないことを確かめてから、視線を私に向けた。


「……助かった。カルディナート嬢。魔物を追い払ってくれて」


 落ち着いた声だった。

 私は一歩進み出て、軽く頭を下げる。


「殿下が前に立ってくださったおかげです。とっさの判断といい、とても素晴らしかったです。ありがとうございました」


 そう告げると、ローレンス殿下が一瞬だけ目を瞬かせる。

 ほんのわずかだが、意外そうな顔だった。


 ……あら。


 風の丘で魔力調整をしたときは、あれほど褒めてほしそうにしていたのに。

 あのときはおそらく殿下というより、リーヴの働きによるものだっただろう。


 でも、今回は殿下が前に出なければ危なかった。紛れもない殿下の手柄であり、こちらの方がよほど立派な働きではないかしら。

 それなのに、褒められて驚くのね。

 ……なんだか、不思議だわ。


 殿下はすぐにいつもの顔に戻り、小さく首を振った。


「当然のことをしたまでだ。」


 その言葉だけを残して、もう一度周囲へ視線を巡らせる。

 坑道の冷たい空気の中で、先ほどまでの緊張がようやく静かにほどけていった。


「……まさか、あんな魔物がいるとは思わなかった」


 ぼそりと呟いたのはユリウスだ。

 彼は視線を落とし、わずかに眉を寄せる。


「このあたりに出る魔物は、もっと小型で、驚かせればすぐに逃げるものばかりだと聞いていた。だから、奥まで進んでも問題ないと判断したが……」


 一度言葉を切り、静かに息を吐いた。


「結果として、判断を誤った。すまない」


 率直な言い方だった。

 けれど、それに対して首を横に振ったのは、彼のペアの女子生徒だった。


「い、いえ……」


 彼女はぎこちなく言葉を探しながら続ける。


「私も……同じように思っていました。大した魔物はいないって……だから、そのまま進んで……」


 そこで言葉が詰まる。

 視線が揺れ、足元へ落ちた。


「……それに、私……何かあったら、盾になるって言っていたのに……足がすくんで……殿下に庇っていただいて……」


 彼女の声が小さくなる。


「……役に立てませんでした。申し訳ありません」


 ローレンス殿下は、わずかに首を傾けた。


「なぜ謝る」


 不思議そうな声だった。

 女子生徒が顔を上げる。

 殿下はそのまま、淡々と続けた。


「臣下を守るのは当然のことだ。気にする必要はない」


 言葉に迷いはない。

 責める色も、慰める色もない。ただ事実として告げているだけだった。

 女子生徒は一瞬言葉を失い、それから小さく頷いた。


「……はい」


 その声は、先ほどよりも少しだけ落ち着いていた。


 ──本来、殿下はこういう人なのではないだろうか。


 ふと、そう思う。

 乙女ゲームの攻略対象としてふさわしい、王太子殿下の姿だ。


 ここ最近見ていたのは、他者を省みず、周囲を振り回すような振る舞いばかりだった。

 けれど今の殿下は、上に立つ者としての責務を果たし、それを当然のこととして受け止めている。


 どちらが本当の彼なのか。

 あるいは、その両方なのか。


 ──どうにも、ちぐはぐだわ。


 そんなことを考えていると、ユリウスがふと顔を上げた。

 視線は坑道の奥へ向いている。


「……ところで前回のフィールドワークのとき、リーヴの動きに違和感があったように思う」


 その言葉に、私はわずかに目を細めた。


 ──やはり。


 あのときの視線は、見間違いではなかったらしい。

 私を見ていたのではなく、リーヴを見ていた。

 彼もリーヴの動きに気づいていたのだろう。


 ユリウスが、ちらりとこちらを見る。

 その視線が一瞬だけ交わる。

 確かめるような、探るような目。

 だが次の瞬間、彼は小さく息を吐いた。


「……やはり、か」


 誰に向けたともつかない声で、そう呟く。


「今回も、何かあるということはないだろうか」


 坑道の奥は、変わらず闇に沈んでいる。

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