17.褒められるべき場面では、特に何も求めないのですね
岩を引きずるような音とともに、それがゆっくりと姿を現す。
灰色の体毛に覆われた、大きなネズミのような魔物だった。
長い尾が床を擦り、黄色い目がこちらをじっと見据えている。
逃げる気配がない。
低く唸りながら、魔物はじり、と前足を進めた。
「……っ」
隣で、小さく息を呑む音がした。
ユリウスのペアの女子生徒だ。
肩が強張り、指先がわずかに震えている。
けれど、その足は確かに前へ出ようとしていた。
出発前に、彼女が口にしていた言葉を思い出す。
もし何かあれば、自分が盾になると。
その覚悟は本物だったのだろう。
だが──彼女の靴先が床を踏むより早く、ローレンス殿下が前に出ていた。
あまりにも自然な動きだった。
気づいたときには、すでにそこに立っている。
迷った様子はない。ただ当たり前のように、私たちと魔物のあいだへ立つ。
「下がれ」
短く、それだけ告げる。
その背中の向こうで、魔物がもう一歩近づいた。
ローレンス殿下が静かに手を上げる。
その動きに応じるように、淡い光が広がった。
私たちの前方に、防御魔法の膜が展開される。
透明な壁のような魔力が、殿下の前で空気を押し広げた。
魔物が低く唸り、床を蹴る。
灰色の巨体が一気に距離を詰め、そのまま防御膜へ突っ込んできた。
次の瞬間、鈍い衝突音が坑道に響く。
見えない壁に叩きつけられ、魔物の体が弾かれたのだ。
勢いを失った体が石床を滑り、長い尾が床を打って大きく揺れる。
それでも魔物はすぐに体勢を立て直し、低く唸りながらこちらを睨みつけた。
だが、防御膜の向こうにいるこちらへ踏み込むことはできない。
私はその横へ半歩進み出る。
坑道の壁は乾いた岩肌で、燃え広がるようなものはない。
威嚇だけなら、炎を使っても問題はない。
指先に魔力を集める。
掌の奥で、熱がゆっくりと膨らんでいく。
「──燃えなさい」
小さく呟いた瞬間、炎が弾けた。
赤い光が坑道を満たし、熱がふわりと広がる。
暗かった岩壁が赤く照らされ、壁に映った影が大きく揺れた。
魔物が鋭く鳴く。
前へ出ようとしていた足が止まり、体がわずかに引く。
炎をもう一度揺らすと、火花がぱちぱちと散った。
洞窟鼠は一歩、二歩と後ずさり、やがて身を翻すと坑道の奥へ駆け去っていった。
石を打つ足音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなる。
坑道には、揺らめく炎の残光と、静かな空気だけが残った。
魔物の足音が完全に消えると、坑道には静けさが戻る。
張り詰めていた空気が、ふっと緩む。
誰かが小さく息を吐き、それにつられるように周囲にも安堵の気配が広がった。
ローレンス殿下が振り返る。
私たちを順に見渡し、異変がないことを確かめてから、視線を私に向けた。
「……助かった。カルディナート嬢。魔物を追い払ってくれて」
落ち着いた声だった。
私は一歩進み出て、軽く頭を下げる。
「殿下が前に立ってくださったおかげです。とっさの判断といい、とても素晴らしかったです。ありがとうございました」
そう告げると、ローレンス殿下が一瞬だけ目を瞬かせる。
ほんのわずかだが、意外そうな顔だった。
……あら。
風の丘で魔力調整をしたときは、あれほど褒めてほしそうにしていたのに。
あのときはおそらく殿下というより、リーヴの働きによるものだっただろう。
でも、今回は殿下が前に出なければ危なかった。紛れもない殿下の手柄であり、こちらの方がよほど立派な働きではないかしら。
それなのに、褒められて驚くのね。
……なんだか、不思議だわ。
殿下はすぐにいつもの顔に戻り、小さく首を振った。
「当然のことをしたまでだ。」
その言葉だけを残して、もう一度周囲へ視線を巡らせる。
坑道の冷たい空気の中で、先ほどまでの緊張がようやく静かにほどけていった。
「……まさか、あんな魔物がいるとは思わなかった」
ぼそりと呟いたのはユリウスだ。
彼は視線を落とし、わずかに眉を寄せる。
「このあたりに出る魔物は、もっと小型で、驚かせればすぐに逃げるものばかりだと聞いていた。だから、奥まで進んでも問題ないと判断したが……」
一度言葉を切り、静かに息を吐いた。
「結果として、判断を誤った。すまない」
率直な言い方だった。
けれど、それに対して首を横に振ったのは、彼のペアの女子生徒だった。
「い、いえ……」
彼女はぎこちなく言葉を探しながら続ける。
「私も……同じように思っていました。大した魔物はいないって……だから、そのまま進んで……」
そこで言葉が詰まる。
視線が揺れ、足元へ落ちた。
「……それに、私……何かあったら、盾になるって言っていたのに……足がすくんで……殿下に庇っていただいて……」
彼女の声が小さくなる。
「……役に立てませんでした。申し訳ありません」
ローレンス殿下は、わずかに首を傾けた。
「なぜ謝る」
不思議そうな声だった。
女子生徒が顔を上げる。
殿下はそのまま、淡々と続けた。
「臣下を守るのは当然のことだ。気にする必要はない」
言葉に迷いはない。
責める色も、慰める色もない。ただ事実として告げているだけだった。
女子生徒は一瞬言葉を失い、それから小さく頷いた。
「……はい」
その声は、先ほどよりも少しだけ落ち着いていた。
──本来、殿下はこういう人なのではないだろうか。
ふと、そう思う。
乙女ゲームの攻略対象としてふさわしい、王太子殿下の姿だ。
ここ最近見ていたのは、他者を省みず、周囲を振り回すような振る舞いばかりだった。
けれど今の殿下は、上に立つ者としての責務を果たし、それを当然のこととして受け止めている。
どちらが本当の彼なのか。
あるいは、その両方なのか。
──どうにも、ちぐはぐだわ。
そんなことを考えていると、ユリウスがふと顔を上げた。
視線は坑道の奥へ向いている。
「……ところで前回のフィールドワークのとき、リーヴの動きに違和感があったように思う」
その言葉に、私はわずかに目を細めた。
──やはり。
あのときの視線は、見間違いではなかったらしい。
私を見ていたのではなく、リーヴを見ていた。
彼もリーヴの動きに気づいていたのだろう。
ユリウスが、ちらりとこちらを見る。
その視線が一瞬だけ交わる。
確かめるような、探るような目。
だが次の瞬間、彼は小さく息を吐いた。
「……やはり、か」
誰に向けたともつかない声で、そう呟く。
「今回も、何かあるということはないだろうか」
坑道の奥は、変わらず闇に沈んでいる。




