06.地味男子と始まる、静かで確かな育成ペア
「ノエリアさまが……?」
「王太子殿下じゃなくて、どうしてあんな男子生徒に……」
なじみもない地味な男子生徒に、公爵令嬢が自ら声をかけた。それだけで、十分に衝撃的だったのだろう。
教室内はひそひそと囁かれる声に埋め尽くされていく。
ざわめきの中で、グレンは戸惑いを隠そうともせず、立ち尽くしていた。
返事はない。けれど、それは拒否ではなく、明らかな困惑だった。
無理もないわね。これまでほとんど話したこともない相手から、突然こんな申し出をされたのだもの。
しかも、よりによってこの授業の初日に。
私──王太子に執着していたと見なされていた存在から。
「ノエリア」
ぴたりと空気が止まり、今度は別の声が教室を支配した。
低く、通る声。全員の注意を引くには十分だった。
声の主は、王太子ローレンス。
堂々とした姿勢で腕を組み、まるで舞台の中央に立つ主役のように、私たちを見下ろしていた。
「どういうことだ?」
「どういうことも何も、ペアを決める時間でしょう?」
私が静かに言うと、ローレンスの眉がわずかにひそめられる。
「だが、お前は……」
「もしかして、私と組みたいのですか?」
私が静かに問いかけると、ローレンスの表情がぴくりと動いた。
ほんの一瞬、彼の目に困惑の色が宿る。
「そんなわけがない!」
反射的に、声が上がる。
はっとしているのは、周囲の生徒たちだけではない。ローレンス自身も、口にしてから気づいたようだった。
けれど、もう遅い。
彼は、私が声をかけてくるのが当然だと信じていた。
そしてそれを、断ることで優位に立とうとしたのか。
あるいは、仕方なく受け入れて許してやるつもりだったのか。
そのどちらであっても、私の行動は彼の計算の外だったということ。
私はそれ以上、何も言わずに視線をグレンへ戻す。
彼は、未だに迷っているようだった。
けれど、その迷いの奥には、思案と観察がある。
──あの日のことを、思い出しているのかもしれない。
私がローレンスに追われていたとき。
それを見て、ためらいもなく助け舟を出してくれたのが、彼だった。
「……よろしいのですか、僕で」
やがて、グレンは低く、落ち着いた声で問い返してきた。
「もちろん」
私がはっきりと頷くと、彼は静かに目を伏せ、ほんの少しだけ笑った。
「では……お受けします、カルディナート嬢」
再び、教室がざわめきに包まれる。
私たちはその中を並んで歩き出した。配布台へと向かって。
背後で聞こえた小さな舌打ちは、誰のものか考えるまでもない。
だが、それもほんの一瞬のことだった。
ローレンスはすぐに顔を上げ、教室中に聞こえる声で口を開いた。
「ふむ……なるほどな。カルディナート嬢は、この場で最も身分の高い女子生徒だ」
彼の言葉に、教室の空気が再び変わる。
ローレンスは静かに頷きながら、舞台を整えるように語り出す。
「となれば、その彼女が、地味な下級貴族の男子に声をかけるのも……高貴なる者としての慈悲の現れ、というわけか」
さも得心がいったように微笑んでみせるその姿は、まるで舞台の主役を奪われていないと言い張る役者のようだった。
……自分の意志で断ったのだと見せかける。
それでいて、自分が振られたという事実をなかったことにするための、見事な軌道修正。
そして。
「ミア」
突然名を呼ばれた少女は、びくりと肩を揺らした。
控えめに教室の隅に立っていた平民の少女ミアが、戸惑いの面持ちで振り返る。
「君と組ませてもらえるかな?」
ローレンスは優雅な微笑みを浮かべていた。
その目に、まるでミアの存在をすくい上げてやるというような色が宿っている。
「僕が君と組めば、平民の中にも可能性があるということを皆に示せるだろう。貴族も平民も関係ない。実力と誠実さを重んじる。それが僕の望む学園のあり方だ」
まるで誰かに見せつけるように。
それは、慈悲深き王子様の演技だった。
……自分はノエリアに振られたのではなく、自ら別の価値ある相手を選んだのだと、そう示すための。
私はそれを見ながら、深く息を吐く。
いいのよ、王太子殿下。
あなたがそうやって、周囲の視線を取り繕うことで、満足できるのなら。
少なくとも、もう私の物語の中では、あなたは単なる端役でしかないのだから。
ローレンスの声が教室に響いたあとも、生徒たちはしばらくざわついていた。
けれど、教師の咳払い一つで、ようやく場の空気が動き出す。
「ペアが決まった者から、前へ。配布台で鉢を受け取り、席に戻れ」
促されるままに、生徒たちは視線を交わし、ぎこちなく歩み寄り始めた。
誰と組むかを探る視線、空気を読み合う駆け引き。中にはうまく相手が見つけられず、立ち尽くしている者の姿もある。
そんな中、私とグレンは、いち早く前へと進んだ。
教師から手渡されたのは、片手で持てる程度の素焼きの鉢。
淡い灰色の器の中には、柔らかな培養土と、小さな透明の種子が一つ。
「……これが、シュプラウトの種子?」
私は鉢を覗き込みながらつぶやく。
爪ほどの大きさの球体。まるで小さなガラス玉のように澄んでいて、ほんのわずかに光を帯びている。
「触れることで、魔力が共鳴すると聞きました」
グレンが隣でそう補足する。
「注ぎ込むのよね。二人の魔力を、同時に」
「はい。……タイミングを、合わせますか?」
私は軽く頷き、シュプラウトの種子に指先を添えた。
グレンの指が、私の指先にそっと触れる。
触れた瞬間、種子が微かに揺れた。
呼吸を合わせるように、そっと魔力を流し込む。
魔術とは違う、力の押しつけでもない。ただ、穏やかに、互いの気配を染み込ませるように。
種子の内部に、かすかな光が生まれる。
ふわりと淡い色が広がり、内側でなにかが芽吹こうとしているようだった。
まだ形にはなっていない。
けれど……たしかに、そこに何かが生まれた。
「……ちゃんと、反応してるわね」
「ええ。魔力の相性も、悪くないようです」
静かな声と、穏やかなやり取り。
周囲ではまだ騒がしさが続いているけれど、私たちの間には少しだけ静けさがあった。
シュプラウト。
魔力を取り込み、成長する小型の魔法生物。
ここから始まるのは、学びの時間であり、そして──たぶん、関係の時間でもある。
彼を選んだのは、ほんの少しの勘。
冷静そうだったし、流されず、騒がず、落ち着いて見えた。
そしてなにより……なんとなく、良い父親になりそうな雰囲気を持っていたから。
もちろん、そんな理由を口にするつもりはないけれど。
それが彼の負担にならなければいい。
いえ、できれば彼にも、私と組むことで何かしらの利益が出るようにしたい。
そうでなければ、不公平だもの。
鉢の中の種子は、まだ小さな光を灯している。
私たちの魔力を受け取って、何かを始めようとしている。
この小さな命と、そして──彼との関係も。