15.唐揚げを食べながら、昨日の風を考える
フィールドワークの翌日。
朝の教室には、まだどこか昨日の風の気配が残っているようだった。
私は机に向かい、簡単な報告書をまとめていた。
昨日、風の丘で杖に魔力を込めようとしたとき、突如として風の流れが乱れた。
それ自体はおかしなことではない。
気になっているのは、その後のことだ。
──リーヴが、何かを整えたようだった。
あの瞬間、リーヴは籠の中で小さく身じろぎをした。
まるで何かに応えるように。
風が宥められたのは、その直後だった。
もちろん偶然の可能性もある。
だが、無視してよい現象とも思えなかった。
私は最後の一行を書き終える。
『シュプラウト由来の魔力が、周囲の風属性魔力に干渉した可能性あり』
ペンを置き、軽く息を吐いた。
そのとき、隣から控えめな声がかかる。
「……ノエリアさま」
顔を上げると、グレンが少し遠慮がちにこちらを見ていた。
「確認ですが、この部分の表現……干渉ではなく、調整の可能性として書いておいたほうがいいかもしれません」
差し出された紙には、私の書いた文章が丁寧に写されている。
どうやら、さきほど私が口にしていた内容をまとめ直してくれていたらしい。
私はそれを受け取り、少し考える。
「……そうね。干渉だと、意図的な作用に聞こえるわ」
「はい。リーヴが意図していたかどうかは、まだ分かりませんから」
「ええ。なら、調整の可能性にしておきましょう」
私はその部分を書き直し、紙を整える。
「グレンも手伝ってくれてありがとう。リーヴに対する見解だから、あなたの意見が聞けてよかったわ」
そう言うと、グレンは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
「いえ……僕は、思ったことを言っただけです」
「それで十分よ」
そのときだった。
「それは何だ?」
低く通る声が、背後からかかった。
振り向くと、ローレンス殿下がこちらを見下ろしている。
私は椅子に座ったまま軽く会釈した。
「昨日、風の丘でリーヴが少し変わった動きを見せていたので、レポートにまとめたのですわ」
「リーヴの……」
殿下は少し考えるように顎に手を当てた。
「そうか、そういうことか」
何か納得したように頷く。
「先に課題を終わらせ、万全の状態で振り返りをしたかったというわけだな」
……はあ?
思わず心の中で声が出た。
どこから、そんな解釈が出てくるのだろう。
しかし殿下は自信満々だった。
「確かにリーヴは、きみとベルマー令息の育てたシュプラウトだからな」
殿下はちらりとグレンを見る。
「だが、昨日の杖作成がうまくいったのは僕の制御のおかげであることを忘れないように」
その言い方は、まるで結論がすでに決まっているかのようだった。
私は書きかけのレポートに視線を落とす。
……違う。
あれは、殿下の制御だけではない。
風が整った瞬間、確かに感じた。
リーヴの魔力が、ほんのわずかに周囲の流れに触れたような感覚を。
まるで──風を、撫でるように。
けれど、私は何も言わなかった。
今ここで反論しても、意味はない。
証拠もない仮説をぶつけたところで、殿下が聞くとも思えない。
それに──最近、殿下がやたらと私に絡んでくるのも、少し妙だ。
以前はここまでではなかったはずなのに。
……もしかして。
ミアが殿下を選ばなかったから?
おそらく殿下ルートでは、殿下の抱えている責任や悩みをヒロインが解きほぐしていくのだろう。
あの手の攻略対象は、大抵そういう構造になっている。
けれど今回は、それがない。
だから──問題を抱えたまま、こうして周囲にぶつけているのかもしれない。
ふと、そんなことを考える。
もっとも、今ここで確かめる術はないけれど。
それに、当のリーヴは今頃、公爵邸の温室で、窓辺の陽だまりを浴びながらうとうとしているに違いない。
鉢の縁に頬を預けて、あの子特有ののんびりした顔で。
思わず、口元がゆるむ。
昨日あれだけ風に包まれていたのに、今はきっと静かな光の中でまどろんでいるのだろう。
私は紙をそっと揃え、立ち上がる。
「提出してまいりますわ」
教師の研究室にレポートを提出し、教室へ戻るころには、ちょうど昼休みの鐘が鳴っていた。
私は鞄から包みを取り出し、中庭へ向かう。
この時間になると、自然と足がそちらへ向くようになっていた。
木立の間を抜けると、夏の名残の光が中庭に降り注いでいた。
日差しはまだ強いが、木陰に入ると風がやわらかく通り抜ける。
石造りのベンチのそばで、ミアがこちらに気づいて立ち上がった。
「ノエリアさま」
「待たせてしまったかしら」
「いいえ。私も今来たところです」
そう言ってミアは周囲を少し見回した。
「今日はグレンさまはいらっしゃらないんですね」
「ええ。教師に呼ばれているそうよ」
今朝、教室で少し話したときに聞いた。
「昨日の観測記録について確認したいことがあるらしくて。そのまま昼食もご一緒するそうよ」
「そうなんですね」
ミアが納得したように頷く。
「あの方、よく先生のお手伝いをされていますものね」
「ええ。頼まれると断れないのでしょう」
私たちは並んでベンチに腰を下ろす。
包みを開くと、まだほんのり温かさの残る匂いがふわりと広がった。
ミアが小さく身を乗り出す。
「あの……今日は唐揚げを作ってみたんです」
「まあ」
思わず顔を上げる。
「でも、ノエリアさまのようにうまくできなくて……」
包みの中から取り出されたそれは、少し形が不揃いではあるものの、きれいなきつね色に揚がっていた。
香ばしい匂いが、木陰の涼しい空気に溶けていく。
私はひとつ手に取ってみる。
衣はやや厚め。けれど油の切れ方は悪くない。
「……ちゃんと揚がっているじゃない」
そう言うと、ミアはほっとしたように息を吐いた。
「でも、味が少し……」
私は一口かじる。
衣の中から、じゅわっと肉汁が広がる。
塩気は少し控えめだが、それがかえって優しい味になっていた。
「悪くないわ」
「本当ですか?」
「ええ。むしろ、最初にしては上出来よ」
ミアの表情がぱっと明るくなる。
私はもう一口食べてから、言った。
「よかったら今度、一緒に作ってみましょう」
「え?」
「揚げ方のコツは、火加減と油の温度。慣れればすぐできるようになるわ」
ミアは嬉しそうに頷いた。
「ぜひ、教えてください」
少しの間、二人で唐揚げをつまみながら昼の風を感じる。
ふと、私は思い出す。
「……ただし、エミリオには気をつけないとね」
ミアがくすっと笑う。
「唐揚げ泥棒、ですか」
「油断すると現れるのよ」
「ふふ……あのとき、本当に驚きました」
以前、私が作った唐揚げをエミリオが素早く奪い取っていったことがあった。
のんびりとしたランチに現れた、唐揚げ泥棒だ。
少しして、ミアがふと思い出したように口を開く。
「そういえば、エミリオさまがこの前おっしゃっていました」
「何を?」
ミアは少し言葉を選ぶようにしてから続けた。
「ノエリアさまが公爵を継がれたとき……」
私は唐揚げを持った手を止める。
「グレンさまのような方が側にいたら、きっと支えになってくれるだろうって」
……あの子らしいわね。
胸の奥で、そんな言葉が浮かぶ。
「そう」
それだけ答える。
ミアはそれ以上続けなかった。
ただ、穏やかな顔で昼の空を見上げている。
木陰を抜けた風が、葉をさらりと揺らした。
ふと、頭の隅に浮かぶ。
──グレン。
言葉になりそうで、結局形にならなかった、あの夜の温室。
思い出すと、少しだけ居心地が悪い。
それから、温室で静かに眠るリーヴ。
昨日、風の丘で感じたあの違和感。
風の流れに触れた、あのわずかな魔力の揺らぎ。
どちらもまだ、答えは出ていない。
けれど今は──私は唐揚げを口に運び、ゆっくりと噛みしめた。
ふと、頭の隅に浮かぶ。
温室でうとうとしているはずの、小さなシュプラウト。
……リーヴは、あのとき本当に何をしたのかしら。




