09.フィールドワーク開始、管理されるつもりはありません
朝の空気は澄んでいて、少しだけひんやりとしていた。
学園の敷地を抜け、フィールドワーク用の転移門をくぐると、視界が一気に開ける。
そこは「聖域」と呼ばれる場所だった。
魔物はおらず、魔力の流れも穏やかで、学園の実習で使われる中でも特に安全性が高い区域。
今日の目的は、杖の材料となる木を選ぶことだ。
「最初は枝を一本分けてもらうだけだ。焦る必要はない。落ち着いて行うように」
教師の説明に、周囲から小さく頷く気配が返る。
あくまで導入。いわば、慣らしのようなフィールドワークだった。
少し離れた位置で、リーヴは教師と公爵家の護衛に囲まれていた。
籠の中にちょこんとリーヴが座り、常に視界の中に人がいる配置だ。
リーヴはきょろきょろと周囲を見回し、不安そうに身を寄せる。
けれど、ふとこちらに目を向け、私を見つけると小さく光が揺れた。
……見える位置にいる、それだけで違うらしい。
「心配しすぎだ」
隣から、落ち着いた声がする。
ローレンス殿下だ。
私と彼は、今回のフィールドワークからペアとして行動する。
「このあたりは完全に管理されている。教師も護衛も十分だ。君が逐一気を配る必要はないだろう」
「承知していますわ」
私はそう答えながらも、視線を外さなかった。
理屈ではわかっている。
安全で、管理されていて、想定外は起きにくい。
今日は魔力を込める工程はない。
この場所でリーヴが何か反応する可能性は低いと、教師も言っていた。
それでも、見ておきたいと思うのは──理屈の問題ではない。
初めて、短い時間だけ他人の手に委ねる。
泣かないか、怖がらないか、ちゃんと戻ってくるとわかっていても、目が離せない。
……これは、慣らしなのだ。
リーヴにとっても、私にとっても。
「それより、先に進もう」
殿下は当然のように歩き出す。
私が従う前提で。
……ええ、ペアですものね。
小さく息を整え、私は並んで歩いた。
森の中は、静かだった。
高く伸びた木々が陽光を遮り、地面にはやわらかな苔が広がっている。
「好きな木を選ぶといい、と言っていたな」
「ええ。樹種に制限はありませんが、枯れ枝ではなく、生きた枝を一本分けていただく形です」
「なら、迷うこともないだろう」
殿下はそう言って、まっすぐ一本の木へ向かう。
迷いがない。というより──選択肢を吟味するという発想がない。
「このあたりが無難だ。硬さも均一で、癖がない」
「無難なのは、殿下にとって、でしょう?」
私がそう返すと、殿下はわずかに眉を動かした。
「君も扱いやすいはずだ」
悪気はない。
本気で、そう思っているのだろう。
けれど、それは「君に合う」ではなく、「自分が扱いやすい」が基準だ。
「私は、少し別の木も見てみますわ」
「時間をかける必要はない」
「課程の一部ですもの。急ぐ理由もありません」
一瞬、空気が止まる。
殿下は私を見下ろし、何か言おうとして──やめた。
「……まあいい。好きにするといい」
許可を出すような言い方。
私は何も言わず、歩を進めた。
少し離れた場所では、他のペアたちがそれぞれ枝を探している。
オズワルドは、候補の木を見つけては剣士らしい目で幹を叩き、「こっちのほうが丈夫だろ?」などと、相変わらず元気だ。
ユリウスは木陰で腕を組み、「杖の出来は素材より今後だよ」などと、興味なさげに言っている。
エミリオはというと、「どれでも同じじゃない?」と言いながら、ペアの女子に即座に却下されていた。
そして──少し離れた場所で。
レオニールは、ペアの女子と並んで、一本の木をじっと見つめていた。
この二人は一学期とペアが変わっていない。
手には、小さな布包み。
一学期の終わりに残った、あの種だ。
声は聞こえない。
けれど、二人とも、どこか慎重で、静かな表情をしている。
……変わったわね。
一学期の出来事を経て、彼はようやく「育てる」ということを考えるようになった。
視線を戻すと、グレンとミアが、やや奥で教師の説明を聞きながら木を選んでいるのが見えた。
グレンが何かを指し示し、ミアが小さく頷く。
落ち着いた、穏やかなやり取り。
その様子を見ていると──胸の奥が、少しだけ痛む。
「……決まったか?」
ローレンス殿下の声で、意識が戻る。
「ええ。この木にします」
少ししなやかで、けれど芯のある枝。
触れた瞬間、わずかに魔力がなじむ感覚があった。
殿下は、私の手の先にある枝を見て、はっきりと首を横に振った。
「それはやめておけ」
即断だった。
検討する余地すら与えない口調。
「君が選ぶには、まだ早い」
「……理由を伺っても?」
私がそう返すと、殿下は当然だというように答える。
「杖作成は、結果がすべてだ。感覚に任せる段階ではない。特に今回は、学園が注目している課程だ。失敗は許されない」
その視線が、私ではなく枝に向く。
「君が不用意な選択をして、評価を落とす必要はないだろう。ここは、無難なものを選ぶべきだ」
無難、失敗しない、評価を落とさない。
つまり、殿下の管理下で。
「君は優秀だ。だからこそ、余計なことはしなくていい」
守るような言葉で、縛る。
「判断は、僕がする。君は、言われた通りに進めばいい」
その瞬間、はっきりとわかった。
これは忠告ではない。
従属を前提とした命令だ。
「殿下──」
私が何か言う前に、別の声が入る。
「いや、良い選択だと思う」
振り向くと、近くで様子を見ていた教師が立っていた。
私の手元の枝を一瞥し、穏やかに頷く。
「確かに均質ではないが、魔力への反応は素直だ。杖作成課程では、素材との相性を見ることも重要だよ」
教師は殿下にも視線を向ける。
「特に、ノエリア嬢のように制御精度の高い生徒なら、問題ない。むしろ、良い経験になるだろう」
一瞬、ローレンス殿下の表情が、はっきりと曇った。
反論しかけて、言葉を飲み込む。
教師の前で、学園の判断を否定するわけにはいかない。
「……そうですか」
絞り出すように言い、口元に薄く笑みを貼り付ける。
「では、学園の方針に従おう」
その声は、表向きは穏やかだった。
けれど、隣にいる私にはわかる。
──不機嫌だ。
自分の判断が通らなかったこと。
そして、それを私が選び、教師に肯定されたこと。
殿下はそれ以上何も言わず、視線を逸らした。
「では、この枝を採取するといい」
教師がそう告げ、私は頷いて両手で木に触れる。
どうか枝を分けてくださいと願うと、ぽとりと枝が落ちてきた。
「ありがとうございます」
私は枝を胸に抱え、静かに息を整えた。
枝は、それぞれ布に包まれ、帰還用の籠に収められた。
フィールドワークの終了を告げる合図が出て、各自が転移門へ向かい始めた。
私は人の流れを確認してから、リーヴのいる方へ足を向ける。
籠の中で、不安そうに身を縮めていたはずのリーヴが、私に気づいた瞬間、ぱっと表情を変えた。
目が大きく見開かれ、淡い光が揺れる。
まるで、こちらへ駆け寄ろうとするかのように。
「……もう少し、待っていて」
戻るまでが授業だ。
今は、過剰に近づくべきではない。
そう判断して歩みを緩めた、そのときだった。
リーヴが、籠の中から小さな手を伸ばす。
指先が示したのは──枝の収められた籠。
「……何かあるの?」
問いかけると、リーヴはきょとんとした顔になり、そのまま首を傾げた。
そして、ぽてん、と。
何事もなかったかのように座り、視線をこちらへ向ける。
答えはない。
ただ、静かな仕草だけが残った。
枝は、まだ布に包まれたままだ。
魔力を込めてもいない。
けれど、これから杖の核になる素材だ。
そういうものに、反応すること自体は──あり得なくはない。
「……やっぱり、何か感じ取っているのかしら」
私は首を傾げるが、リーヴはそれ以上何も反応を示さない。
今はまだわからないと、籠から視線を外した。
転移門が、淡く光を放っている。
帰還の準備は、すでに整っていた。




