08.所有されるつもりはありませんので
教室に、遅れてざわめきが戻ってくる。
小さな息遣い。椅子が軋む音。誰かが呑み込んだ声。
けれど、私の耳にはそれらが遠く、膜越しのように聞こえていた。
ローレンス殿下と──私。
言葉としては理解している。
だが、その意味が、まだ実感として降りてこない。
教師は淡々と、次の名前を読み上げていく。
一つ、また一つ。
ペアが決まり、教室の空気が少しずつ動き始める。
その中で、私は静かに背筋を伸ばした。
取り乱す理由はない。
ここは学園で、これは授業だ。
感情で反応する場面ではない。
横目で、前方の席を窺う。
ローレンス殿下は、すでに姿勢を正していた。
先ほど一瞬だけ揺れた肩は、もう落ち着いている。
表情も、いつも通りだ。
少なくとも、表向きは。
──学園側の判断。
教師の言葉が、頭の中で反芻される。
一学期の結果を踏まえ、最良と判断された組み合わせ。
理由は、きっとある。
そうでなければ、わざわざこの形を選ぶはずがない。
私は視線を戻し、机の上に揃えた指先を見る。
震えてはいない。呼吸も乱れていない。
大丈夫。そう、自分に言い聞かせる。
必要以上に構えることはない。
淡々と、課程をこなせばいい。
そう考えた、そのとき。
前方から、わずかに視線を感じた。
ローレンス殿下が、こちらを見ている。
じっと、確かめるように。
その視線の意味を測ろうとして──私は、やめた。
今は、考えるべきではない。
これはまだ、始まりにすぎないのだから。
教師の読み上げは、容赦なく続いていく。
一組、また一組。
名前が呼ばれるたびに、教室の空気が少しずつ動き出す。
「──グレン・ベルマーくんと、ミア嬢」
その名を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。
反射的に、視線が隣へ向きそうになるのを堪える。
ここで振り向く理由はない。
けれど、視界の端でグレンが小さく息を吸うのがわかった。
驚きはあったはずだ。それでも、彼は何も言わない。
ミアのほうを見ると、肩を強張らせたまま、きょとんとした表情で前を向いている。
きっと、自分がグレンのペアとして指名されるとは思っていなかったのだろう。
一学期は私とグレン、ローレンスとミアというペアだった。
それが互いに交換したような形になる。
学園側にはどういった思惑があるのだろうか。
私は深呼吸して、フィールドワークのペアについて整理してみる。
ペアは固定。
けれど、行動単位は個別ではない。
フィールドワークは、複数ペア合同。
一つの地点に、数組ずつ移動し、順に魔力を込め、記録を取る形式。
常に隣にいるわけではない。
常に顔を突き合わせるわけでもない。
それを理解したことで、胸の内にあったざわつきが、少しだけ落ち着いた。
シュプラウト育成のときとは、違う。
あのときは、毎日の課題と週末の持ち帰りがあり、生活の延長に近いものだった。
今回は、あくまで週に一度だけのフィールドワークだ。
私は、前を向いたまま静かに息を整える。
問題は、ペアそのものではない。
どう振る舞うか、だ。
教師の声が、最後の組を読み終える。
「以上だ。詳細な進行については、次の授業で説明する。今日はここまで」
授業が終わり、教室の空気が一気に緩んだ。
席を立つ音、椅子を引く音、ざわめきが重なっていく。
「……なんだか、教室が落ち着きませんね」
隣で、グレンが小さく苦笑する。
「ええ。無理もないわ」
ペア指定。
しかも、学園側による決定。
あちこちで視線が交錯し、名前が囁かれている。
私たちは人の流れを避けるように、廊下へ向かった。
「フィールドワークの詳細、次の授業で説明があるそうですね」
「ええ。準備はできているけれど……実際に始まると、また違うでしょうね」
そんな、いつも通りのやりとり。
ほんの少し、気持ちを落ち着かせるための会話だった。
「ノエリア」
その背後から、はっきりとした声が割り込んでくる。
足を止める前に、気配でわかった。
振り返ると、ローレンス殿下が立っている。
「殿下」
私は一礼する。
グレンも遅れて、同じように頭を下げた。
けれど、殿下の視線は最初から私にしか向いていなかった。
「やはり、君だったな」
当然の結果だ、と言わんばかりの口調。
「……何がでしょうか」
「二学期のペアだ」
殿下は軽く肩をすくめる。
「学園が最適を選んだだけだろう。本来、こうなるべきだった」
──本来。
その一言が、胸の奥で小さく引っかかる。
「君と組むのは、自然な流れだ」
殿下は、私の反応を確かめるように一歩近づいた。
「一学期は、少し回り道をしていただけのことだ」
──回り道。
その言葉が、私の背後にいるグレンを、まるで存在しなかったもののように扱っていることに気づく。
「殿下」
私は、静かに距離を保ったまま言う。
「学園の決定ですわ。個人的な意味はありません」
「そう思いたいのか?」
殿下は、口元だけで笑った。
「だが、周囲はそうは見ない」
ちらりと、ようやくグレンへ視線が向く。
けれどそれは、対等な相手を見る目ではなかった。
「君の立場なら、わかるだろう。誰が、誰の隣に立つのがふさわしいのか」
殿下は、私だけを見て続ける。
「自分の立場を忘れないように。君は、君の役割を果たせばいい」
──役割。
その瞬間、はっきりと理解した。
この人は、期待しているのではない。
所有しているつもりなのだ。
「殿下」
私は、わずかに声の調子を落とした。
「課程は、ペアで進めるものです。どちらか一方のものではありません」
一瞬、殿下の表情が揺れる。
けれどすぐに、余裕のある笑みが戻った。
「だからこそだろう」
まるで、言い聞かせるように。
「君となら、問題は起きない」
その視線が、再びグレンをかすめる。
まるで、自分の立ち位置を確認するように。
「そうですわね。問題が起きる前に──私が摘んでしまいますもの」
穏やかに微笑みながら言い放つ。
わずかに、殿下が息を呑んだ。表情を整えるように、わずかに顎を引く。
「……では、次の授業で」
殿下はそれだけ言い、踵を返した。
残された廊下に、短い沈黙が落ちる。
「……ノエリアさま」
グレンが、先に口を開いた。
困ったような、何を言ってよいかわからないといった声。
「気にする必要はないわ」
私はそう答えたが、胸の奥は静かに波立っていた。
本来の位置。
元に戻る。
──そのどれもが、私の意思を含んでいない。
この課程で試されるのは、杖の出来だけではない。
そう、はっきりと感じていた。




