05.ペア決め開始! 王子様の隣を通り過ぎ、私はその名を呼んだ
翌朝の校舎前、私は少し早めに教室へ向かっていた。
まだ生徒のまばらな廊下を進んでいると、軽い足音が駆け寄ってくる。
「ノエリアさまっ!」
呼び止める声に振り返ると、そこにはミアがいた。
息を弾ませながらも、真剣な眼差しで私を見上げてくる。
「昨日は……本当にすみませんでしたっ。あの、王太子殿下の前で、うまく言えなくて……」
ミアはしゅんと肩を落としながら、ぺこりと頭を下げた。
制服の袖をぎゅっと握るその姿が、妙に幼く見える。
「気にしなくていいわ。あなたが謝ることではないもの」
「王太子殿下や生徒会の皆さまも、悪気があるわけではないと思うんです……。でも、あんな……」
ええ、そうね。
きっと悪気はないのでしょう。彼らは自分たちが正しいと思っているのだから。
でもね、自らの正義を押し付けてくる連中が一番厄介なのよ。
「いいのよ。あなたが悪いわけじゃない」
そう告げると、ミアは小さく目を丸くした後、胸に手を当てて安堵したように笑った。
その拍子に、首元の髪がさらりと揺れて、制服の襟元からわずかに肌が覗く。
そこに見えたのは、薄いピンク色の、ハートにも似た痕だった。
「その痕……」
思わず口から出ていた。
ピンク色のハートの痣なんて、いかにもヒロインの証らしい。
「あ、これ……紅魔病の痕なんです」
しかし、さらりと返ってきた言葉は予想外のものだった。
私は反射的に息を呑んだ。
紅魔病。
強い魔力を持つ者だけが発症する病気だ。
魔力のない者にはまったく影響がないが、魔力が多い者ほど重症化しやすい。
貴族であれば、魔術師による治療であっさり完治できる。
だが、平民にとっては、治療手段もなく、生死にかかわる恐ろしい病だ。
「何年か前にかかったんですけれど……あまり覚えていないんです。でも、熱で何日も意識がなかったって……母が言ってました」
ミアは首元に手を当てながら、どこか照れくさそうに笑った。
その笑顔の下にあった過去の深刻さに、私はしばし言葉を失う。
私も幼い頃にかかったことがある。
でも、すぐに魔術師による治療を受け、数日で回復した。何の痕も残っていない。
大したことのない、ちょっとした風邪のようなもの。それは、貴族だからできた治療だったのだ。
これまで意識したことすらなかった。
同じ病でも、どこに生まれたかで生死が分かれる。
それは、あまりにも静かで、冷たい事実だった。
「ミア、今はもう大丈夫なの?」
「はいっ! 元気です。それに……あの病気にかかってから、魔法が使えるようになって……」
そう言って、少しだけ照れたように笑うミアの姿に、私は言葉を返せなかった。
けれど、その沈黙を破るように、ミアがふと思い出したように口を開く。
「そういえば、聞きました。今度、一・二年生合同の授業があるんだそうです」
「……ああ、そうね。そんなことを聞いたような気がするわ」
昨日、グレンが『今年から新設された育成課程』があるようなことを言っていたはず。
一・二年生合同で行う授業だとも。
「ノエリアさまと一緒に授業が受けられるなんて、楽しみです!」
無邪気に喜ぶミアの笑顔に、私は思わず笑みを返していた。
なぜだろう。この子の笑顔を見ると、どこか懐かしいような、不思議な気持ちになる。
「……きっと、ヒロインの力ってやつよね」
そっと息を吐きながら呟く。
「え? ノエリアさま、何か言いました?」
「いいえ、なんでもないわ。行きましょう」
「はいっ!」
首を傾げるミアに向かって微笑みかけると、ミアも元気よく頷く。
そして私たちは、一緒に歩き出した。
それから二週間が過ぎた。
朝から教室はざわめきに満ちている。
「今日から始まるんだって!」
「本当に男女ペアでやるの?」
「きゃー! 誰と組むかで運命変わりそう!」
生徒たちが浮き足立っているのは、今期から導入された特別課程『シュプラウト育成』が、いよいよ開始されるからだ。
シュプラウト。
魔力を取り込んで成長する小型の魔法生物で、正しく育てれば、一定の形に昇華するという。
魔力の循環、波長の調律、環境への適応……魔術の基礎を実践的に学ぶには、もってこいの課題。
私自身も、そこには大いに興味があった。
しかし、生徒の関心はそんな学術的な部分にはないようだ。
「ペアで一鉢ってことは、まるで夫婦みたいだよね!」
「誰と組めるかな……」
女子たちは乙女な妄想に花を咲かせ、男子たちは妙に落ち着かない様子でそわそわしている。
そう、この授業は男女ペアで行うのだ。
乙女ゲームの親密度アップ用イベントだろうか。
「ノエリアさまと組めるかと思ったのに、残念です……」
しゅんとしたミアに、思わず苦笑してしまう。
みんな浮き足立っているというのに、この子は本当に……。
「浮かれているのは、誰と組めるかにばかり夢中な子たちばかりね」
私がそう呟くと、ミアもきょろきょろと周囲を見回して、小さく笑った。
「そういえば、皆さん、すごくそわそわしていますね」
「無理もないわ。この授業、ただの課題じゃなくて……お見合いみたいな意味合いもあるもの」
「お見合い……ですか?」
ミアが目を丸くする。
その反応が新鮮で、私は言葉を継いだ。
「ペアで育てる、一つの鉢。それってまるで、疑似夫婦よね。誰と組むかで、その後の立ち位置が変わることもあるわ」
「でも、貴族の方って、婚約者は親が決めるものじゃないんですか?」
「もちろん、そういう家もあるわ。でも最近は少しずつ、恋愛結婚が増えてきているの」
ミアは驚いたように、ぱちぱちと瞬きをした。
「学園って、そういう場所なんですね」
「ええ。学ぶ場所であると同時に、結婚相手を見つける場所でもあるの。少なくとも、貴族社会では」
「身分差を超えて結ばれる方も、いるんでしょうか……なんだか、素敵です」
その言葉に、私は一瞬だけ視線をそらした。
素直でまっすぐなミアの目を正面から受け止めるには、少しばかり眩しすぎた。
たしかに、この学園には『自由な恋』や『運命の出会い』が存在するかのような建前がある。
けれど実際のところ、それがどれほど限られた自由かなんて──言葉にしたところで、この子の純粋さを曇らせるだけだろう。
私は黙って、小さく微笑んだ。
すると、ミアは嬉しそうに頷く。
……箱庭の中の自由。それでも、その中で花を咲かせようとする者がいるのなら。
たとえば、この子のように。
物語を変えるのは、いつだって決まりきった枠の外から来た存在だ。
ヒロインというのなら、きっと彼女はそんな役目を背負っているのだろう。
でも。
その物語の中に登場する攻略対象たちは、私から見れば、あまりおすすめできるような相手ではない。
彼女が変化をもたらすとして、それは本当に彼女にとって幸せな結末を呼ぶものなのか。
そんなふうに考えているうちに扉が開き、教師が教室へと入ってきた。
「それでは、今日からシュプラウト育成課程を始める。男女ペアを組み、配布された鉢を受け取りに来るように」
一斉に、生徒たちの視線が教室内を飛び交う。
ちらり、と誰かを見る者、うかがうように微笑みかける者、ぎこちなく立ち上がる者。
さながら舞踏会のような静かな駆け引きが始まっていた。
ローレンスは、何かを待ち構えるように腕を組んで立っている。
まるで当然のごとく、私が彼のもとへ歩いてくるのを待っているかのように。
だけど、私は。
彼の横を、何も言わずにそのまま通り過ぎた。
一瞬、空気が凍るような気配がした。
だが、気にすることなく、私はその先に立っていた人物に近づいていく。
「グレン・ベルマーさま」
名前を呼ぶと、彼は驚いたように目を見開いた。
一瞬、明らかに戸惑いが走る。その視線は、まるで何かの意図を測るように、静かに私を見つめていた。
……警戒しているわね。
当然だわ。これまでろくに接点がなかった私が、この場で話しかけてくるなんて、何を考えているのかと不思議でしょう。
でも、それでも。
「よろしければ、私と組んでくれません?」
その瞬間、教室内がざわめいた。