35.「殿下は無理」──平民ヒロイン、王太子を撃退する
ローレンスの口から思いがけない言葉を聞かされ、私は胸の奥が熱くなるのを否定できなかった。
……けれど、その一瞬の揺らぎはすぐに打ち消されることになる。
「きみが僕から離れていったように見せたのは──押しても駄目なら引いてみろ、という深い思慮だったのだろう?」
ローレンスは得意げに言い放った。
まっすぐな瞳は自信に満ちていて、もはや疑いの余地はないとでも言いたげだ。
「実際、僕はここ最近のきみのほうが、かえって気になった。あえて距離を置き、僕の愚かさを気づかせようとしてくれたのだろう? きみの深い思慮と、未来を思う思いやり……ようやく理解したよ」
……理解? 何を?
「だが、僕はもう気づいたんだ。やはり正妃にふさわしいのは、きみだ。だから、もうあのように僕から離れようとする素振りを見せる必要はない」
その言葉に、背筋が凍りつく。
驚くほど……嬉しくない。
かつての私は、必死にこの人を追いかけ回していたはずなのに。
今となっては、それが嘘のように遠い。
あの頃だったら、「正妃に」と言われればきっと胸を躍らせたのだろうか。
けれど、今、脳裏にちらりと浮かぶのは──。
……グレンの姿だった。
寡黙で、不器用で、それでも真剣に隣に立とうとしてくれる彼の横顔。
どうして今、こんなときに思い出すのか。
自分でも理解できず、胸がざわついた。
「ミアのことも、愛妾として大切にする。彼女の意思も尊重し、王宮でやりたいことがあれば支援するつもりだ」
……はぁ?
呆れを通り越して、言葉を失う。
やっぱり、この人は変わっていない。
いや、むしろさらに斜め上に突き抜けただけだ。
ほんの少しでも内省したのでは、と期待した私が馬鹿だった。
遠巻きにこちらの様子をうかがっている生徒たちも、思わず顔を見合わせてざわめいた。
「今、愛妾って言った?」
「え、聞き間違いじゃないよね?」
ひそひそ声が風に流れる。
それでもローレンスはまるで気づかぬふりで、堂々と胸を張っていた。
私は扇を握りしめ、口を開いた。
「冗談じゃ──」
私が言い返そうとした、その瞬間。
「す、すみません……聞こえてしまったのですが……」
おずおずとした声が背後から響いた。
振り向けば、ミアが立っていた。
頬は赤く、視線は泳いでいる。けれど、その小さな体は必死に震えを堪えていた。
彼女なりの勇気を振り絞っているのが伝わってくる。
「私は……」
胸の前でぎゅっと両手を握りしめ、ミアは言葉を紡ぐ。
「私は、自分のことだけを見てくれる人と、結婚したいんです」
一拍の沈黙。
風が枝葉を揺らし、その音だけが耳に届く。
「殿下は尊すぎて……私には無理です。ごめんなさい」
その声は小さいのに、不思議と中庭全体に届いた。
……え?
一瞬、時が止まったようだった。
私も、ローレンスも、遠巻きに様子をうかがっていた生徒たちも。
次の瞬間には──ざわめきが爆発する。
「……殿下が、振られた……?」
「ミアさん、すごい……いや、怖いもの知らずすぎるでしょ……」
「でも……よく言ったわね。あんなにはっきり……」
驚愕の声に交じって、どこか敬意を帯びた響きもあった。
王太子相手にここまできっぱりと告げられる勇気に、誰もが圧倒されていたのだ。
誰もが驚きの眼差しを向けながら、ほんのわずかに称えるような色を宿していた。
──ミアが、こんなにもはっきりと。
かつては怯えて言葉を飲み込んでばかりだった彼女が、自分の意思を正面から口にできるようになるなんて。
胸の奥がじんと熱くなる。
立派になったのね……と、思わず目頭が熱くなりそうになった。
ローレンスは息を呑んだまま、しばし硬直していた。
いつもなら氷の宝石のように冷たく澄んでいる碧眼が、大きく揺れて焦点を失っている。
普段の自信に満ちた彼とはまるで別人のようだった。
──王太子が、平民の少女に真正面から拒絶された。
その衝撃に、周囲の生徒たちも息をのむ。
けれど、さすがは王太子。
ほんのわずかな沈黙ののち、表情を整え、落ち着いた声を響かせた。
「そうか……確かに、きみの重圧を思えば、それが正しいのかもしれないな」
揺らぎのない声音。
その瞬間、あたりに広がっていた緊張が和らぎ始める。
「平民であるきみが王宮で輝くことで、民に希望を与えられることを期待した。だが……少々、僕の思いだけで先走りすぎてしまったようだ」
言葉は、まるで演説の一節のようだった。
聞こえのよい美辞麗句を織り交ぜ、周囲に向けて響かせる。
自分の失態さえ「民を思ってのこと」と塗り替える、その器用さに舌を巻く。
「だが、きみを応援したいという気持ちに偽りはない。この想いだけでも、受け取ってもらえるだろうか」
毅然として、微笑みすら浮かべてみせる。
「……さすが殿下」
「立派なお言葉だわ」
遠巻きの生徒たちが、安堵と称賛の入り交じった声を漏らす。
ほんの数息前に「振られた」とざわついていた空気が、見事に持ち直されていく。
──本当に、取り繕うのは上手い。
けれど、私は見逃さなかった。
彼の拳がなおも震えていることを。
立派な言葉の裏で、どれほど大きな衝撃を受けているかを。
……有能は有能なのよね。
それでも、見事なまでに斜め上に迷走しているわ。




