30.ありがとうの先にあった、伝えたかったこと
グレンは小袋を見つめたまま、しばらく黙っていた。
やがてゆっくりと息を吐き、伏せた睫毛の奥から私を見上げる。
「……ノエリアさま」
その声は、どこか決意を帯びていた。
「こんなことをお聞かせするのは、本当はよくないのかもしれません。でも……ノエリアさまだからこそ、聞いていただきたいんです」
胸の奥が温かく揺れる。
彼は続けた。
「今日……この使用料を受け取って、自分の工夫に価値があるのだと、初めて思えました。ノエリアさまが信じてくださったから……僕は、ほんの少しだけ、自分を認められた気がします。本当に、ありがとうございます」
言葉は不器用だけれど、その感謝は真っ直ぐに伝わってくる。
そして彼は視線を落とし、膝の上で指をきつく絡めた。
「だからこそ……お話ししたいんです。どうして僕が、いつも自分を不完全だと思ってしまうのか──その理由を」
白くなるほどに握られた指先が、小さく震えていた。
告げられる言葉を待ちながら、私も自然と息を潜める。
「……数年前、僕は紅魔病を発症しました」
それ自体は、すでに知っている事実。
けれど彼の声音には、まだ語られていない痛みが宿っていた。
「母は必死に看病してくれました。夜も眠らずに、ずっと側にいて……でも、治せなかった。そして最後には、僕を救うために、父に頭を下げて託したんです」
彼の声がわずかに揺れ、静寂に溶けていく。
「母は本当は、手放したくなかったはずです。……でも、それしか方法がなかった。頭では分かっていても、胸の奥には……置いていかれた、という思いが残ってしまって」
淡々とした口調の奥に、深い痛みがにじんでいた。
「父は、紅魔病を強い魔力の証と見ました。だから僕を引き取り、跡継ぎにしようとしたんです。でも……僕は貴族として育っていなかった。礼儀作法も常識も知らず、早くできるようになれと叩き込まれて……。何をしても遅れているようで、自分は足りない人間だと、ずっと思い込むようになりました」
彼は苦い息を吐き、握り締めた指をわずかに震わせる。
「それに……子爵家には腹違いの妹がいます。彼女は紅魔病を発症していなくて、魔力も強くない。だから父に失望されていて……」
声が震え、わずかに視線が揺れる。
「僕が跡継ぎ候補となったせいで、彼女は奪われたと思ったのでしょう。ずっと僕を嫌い、貶めるようなことばかり言ってきます。父も……結局は僕を利用価値で見ているだけで。居場所がなくて……どこにいても、ひとりでした」
その横顔に、長く背負ってきた影が差していた。
胸の奥が締めつけられるのを感じながら、私はただ、彼の言葉を受け止めていた。
やがて彼は深く息を吐き、ほんのわずかに口元を震わせながら顔を上げる。
「……だから、ノエリアさまが僕に声をかけてくださったとき……信じられませんでした」
胸がどきりと鳴る。
「僕なんかに務まるはずがないと、ずっと思っていたのに……。それでも、あなたは僕を選んでくださった。あの日から、ずっと……夢みたいで……」
彼の声は震えていた。
それでも、目を逸らすことなく、ひたむきにこちらを見据えている。
頬が赤く染まり、喉が詰まるように掠れる声は、必死に言葉を紡ぎ出そうとしていた。
「……僕の目標は、いつか力を得て、自立して、母を迎えに行くことです。今日いただいた使用料で、その未来にほんの少し近づけた気がしました。もちろんノエリアさまのお力添えがあってこそです。……でも、僕自身にも、できることがあるのだと初めて思えたんです」
そう言い終えると、グレンは小さく息を整え、改めてこちらを見つめた。
まるで逃げ場をなくすように、真剣な眼差しを私へと向けてくる。
その瞳の奥に宿る熱は、感謝だけではなく──もっと深い何かを訴えかけているようで、胸が強くざわめいた。
「僕は──ノエリアさまの……」
その瞬間。
「小鳥が、元気になりました!」
弾んだミアの声が温室に飛び込んできた。
「姉さま、すごいんだ! 本当にあっという間に治って……僕、信じられなくて!」
興奮した様子のエミリオが、矢継ぎ早に言葉を重ねながら駆け込んでくる。
ミアは少し恥ずかしそうに笑みを浮かべていた。
張り詰めていた空気が、一気に破られる。
グレンははっとして言葉を飲み込み、慌てて視線を伏せた。
「……失礼しました。余計なことを言いかけました」
消え入りそうな声。
頬の赤みを隠すようにうつむく彼を前に、胸の奥がざわつく。
──今、彼は何を言おうとしたのだろう。
ただの感謝……ではなかった。
もっと大切な何かを伝えようとしていた気がする。
けれど。
そんなはず、ない。
私が勝手に深読みしているだけだ。
彼はただ、不器用に礼を言おうとしたに過ぎないのだろう。
グレンは、私を信用して過去の話を聞かせてくれた。
繊細な話をしてしまったことで、今は気後れしているのかもしれない。
──いや、きっとそうだ。
でも。
彼が素の自分を見せてくれたことが、私は何より嬉しかった。
私は軽く息を整え、戻ってきた二人へと笑みを向けた。




