28.異変を見ていないのは、誰だったのか
週末を前にした育成授業の終わり。
教師が教壇に立ち、生徒たちへ視線を巡らせた。
「さて……今週も、希望するペアは鉢を持ち帰って構いません。学園に預けるのも自由ですので、よく相談して決めてください」
空気が少しだけ引き締まる。
けれど、中にはすでに面倒そうな顔をしている生徒もちらほら見えた。
「僕が持ち帰るよ!」
最初に手を挙げたのは、わが義弟エミリオだった。
珍しくやる気を見せたように見えるが──隣のペアには通用しなかったようだ。
「どうせノエリアさまに押しつける気ですよね。この子がかわいそうです」
「えっ……そ、そんなことないよ!」
エミリオは慌てて両手を振ったが、彼女の冷ややかな視線は変わらない。
教室の空気は「まあ、そうだろうな」という雰囲気で満ちていた。
──やっぱりね。口先だけはいいけれど、信用はゼロ。
本人がそれに気づいていないのが、なお厄介だわ。
「今週も、私が持ち帰りますね」
そう申し出たのは、オズワルドのペアの女子生徒だった。
彼は一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐに素直に頷く。
「……そうだな。いつも迷惑をかけるけど、頼む」
申し訳なさそうなオズワルドに、ペアの女子生徒が微笑む。
──この二人はそれぞれ納得しているようだし、心配ないわね。
続いてユリウスのペアが相談を始めていた。
「週末は私が動けますが、どうします?」
「では、今週は君に任せよう」
互いに短く意見を交わし、すぐに結論を出していた。
──あちらも心配なさそう。
私はグレンに向き直った。
「グレン、今週末も私が鉢を持ち帰ろうと思うの。それで……また、公爵邸に来てもらえないかしら。記録用紙に関することも話したいの」
彼の瞳がかすかに揺れる。
私が微笑むと、視線を落として少し逡巡してから、控えめに答えた。
「……はい。度々お伺いして申し訳ないのですが」
「そんなことはないわ。むしろ、私がいつも呼びつけてしまってごめんなさいね」
「そのようなことは……」
そんなやり取りをしてると──
「……わ、私が持ち帰ってもよろしいでしょうか」
ミアのおずおずとした声が聞こえてきた。
その表情は緊張にこわばっているが、以前よりもどこか覚悟が宿っているように見える。
ローレンスはしばし彼女を見つめ、それから意外にもあっさりと頷いた。
「……ああ、頼むよ。少し、考えることがあってな」
そう言い残し、彼は何事かを胸に秘めたように黙って立ち上がり、教室を去っていった。
──あら。
また何か勘違いしたことを言ってくるかと思っていたのに、肩すかしを食らった気分。
もしかして、本当に響いているのかもしれない。
……そうであってほしいけれど、油断は禁物ね。
「グレン、殿下の態度……どう思う?」
声を潜め、そっとグレンに囁く。
「以前とは変わってきているようにも思えますが……まだ、はっきりとは……」
「……やっぱり、今週もミアを呼んだほうがいいわね」
そう言ったところで──。
教室の奥から、苛立ちを含んだ声が響いた。
「だから、僕が持ち帰ると言っているだろう」
レオニールが立ち上がり、机に置かれた鉢を片手で抱え上げていた。
「……あの、レオニールさま」
隣の女子生徒が、おずおずと声をかける。
けれど彼は目を向けることもなく、淡々と続けた。
「誰よりも育っているのは、見れば分かるだろう。だったら、僕が責任を持って世話をする。それだけのことだ」
誇らしげに言い放つレオニールだが、彼のペアの女子生徒は眉をひそめて鉢を見つめていた。
「……でも……」
とうとう、たまりかねたように彼女が声を張った。
「レオニールさま、最近……鉢の様子が少しおかしいように思います。だから、私も一緒に──」
「必要ない」
レオニールの冷たい声に、女子生徒の手が空中で止まった。
その指先が小さく震える。
彼女の懸命な訴えすら退けるその態度に、教室に緊張が走った。
──いい加減、黙ってはいられない。
「レオニール・フロスト」
私は扇を手に取り、ぱしんと軽く鳴らした。
彼の赤色の瞳が、不機嫌そうにこちらへ向けられる。
「ペアの同意もなく持ち帰りを強行するなんて、身勝手もいいところよ。育成は一人のものではなく、二人で成すもの。相手の意見を切り捨てるようでは、いくら結果が出ていても土台から歪むわ」
「……歪む?」
わずかに揺れた声音。
図星を突かれたのか、その眉がぴくりと動いた。
教室の視線が一斉に彼へ注がれる。
「何を根拠に……僕の鉢は誰よりも順調だ」
「順調に見えるのなら、それこそ記録を残して証明すればいいでしょう? 形だけ誇っても、根拠がなければ砂上の楼閣にすぎないわ」
私の言葉に、一瞬、彼の口元が引きつった。
しかし次の瞬間、彼は机を押しのけるようにして立ち上がった。
「──持ち帰るのは僕だ」
短く言い捨てると、鉢を抱え込む。
反対する女子生徒を振り切り、そのまま扉の方へ歩み出した。
──やはり。
表面は冷静を装いながらも、内側には確かな苛立ちがある。
けれど今は、これ以上追い詰めるべきではない。
この週末が、彼の鉢をどう変えていくのか──その答えが、いずれ明らかになるはずだ。
扉の向こうへ消えていくレオニールの背中を見送りながら、私は胸の奥にひとつの不安を抱えたまま、静かに息を吐いた。




