26.静かな努力が学園の標準になる日
放課後。
片付けを終えた生徒たちが教室を出ていく中、私は隣の席に座るグレンを捕まえた。
「ねえ、少し時間をもらえるかしら」
彼は怪訝そうに瞬きをしたが、逃げ道を探す前に私が畳みかける。
「教師のところへ行きましょう。あなたの観察記録について話したいの」
「……僕の、ですか?」
困惑が表情に浮かんだ。
けれど、否やを言う前に立ち上がった私に合わせ、渋々といった足取りでついてきてくれる。
教師の個室の扉を軽く叩くと、中から「どうぞ」と疲れた声が返ってきた。
扉を開けると、部屋の中は書類と記録用紙の山。机に肘をついた教師が、書き連ねられた観察記録をめくりながら、ぐったりと肩を落としていた。
「……これでは、とても比較にならんな……字も乱雑で、何を記したいのか読めぬものまである……」
独り言のように嘆息し、額を押さえている。
「失礼いたします、先生」
私が声をかけると、ようやく顔を上げた。
「カルディナート嬢か。……どうした? 用かね」
「ええ。少し、ご相談がありまして」
私は一歩前へ出て、隣に立つグレンを軽く示す。
「グレンの観察記録についてです」
「……ふむ。ああ、彼の記録なら目を通しているぞ」
教師の声色がわずかに変わる。
疲れ切った顔に、ほんの少し光が戻った。
「最初から丁寧だったが、最近はとりわけ洗練されてきている。注入量も脈動も、きちんと比較できる形で書かれていてな……実にありがたい」
感嘆を隠さず漏らすその表情に、私は小さく微笑んだ。
「そこで提案なのですが──」
私は一歩進み、机の上に散乱した記録用紙に視線を落とした。
字も大きさもまちまちで、走り書きのようなものも少なくない。これでは比べようがないだろう。
「授業では皆が好き勝手に書いていますけれど、それでは後で比べるのが大変でしょう? グレンの書き方を雛形として整えれば、全体の水準を上げられるはずです」
「雛形として……?」
教師が眉を上げる。
私は軽く頷いた。
「項目をあらかじめまとめた記入用紙を作り、各自に配布すればよいのです。魔力の注入量、芽の脈動、葉の色や形──その基本的な項目を埋めれば、後から見返すときも比較しやすいでしょう」
「なるほど……!」
教師の声に勢いが宿った。
机に突っ伏していた姿勢を正し、目を輝かせる。
「確かに、あれほど整理されていれば、誰が見てもすぐ理解できる。授業の指導にも役立つだろう……! だが、印刷の手間がな……」
「それなら、カルディナート家で引き受けます」
私がすぐさま答えると、教師は目を丸くした。
けれど、冗談ではないと悟ると、深く頷く。
「……本気か。いや、助かる。購買部で扱えるようにすれば、全員が使えるようになるな。これはすぐにでも取り入れたい……!」
前のめりになった教師の熱に、グレンは驚いたように瞬きを繰り返していた。
けれど私が横を向くと、彼は慌てて視線を伏せる。
……本当に、謙虚というか、自己評価が低いというか。
でも──こうして形にすれば、彼の努力が正当に報われるはずだ。
「うむうむ……早速、次の授業から使わせてもらいたいくらいだ!」
教師の声は先ほどまでの疲労が嘘のように弾んでいた。
散乱していた用紙を慌ただしくかき集め、机の端に寄せると、私たちをまっすぐ見つめる。
「ベルマーくん、君の記録を元に雛形を整えてもらえるだろうか。もちろん、私も指導に協力する」
「えっ……そ、それは……」
突然の直球に、グレンは完全に固まった。
両手を膝に置き、視線を宙に泳がせながら、しどろもどろになる。
「い、いえ、僕なんかの……その……」
「なんか、ではない」
教師の低い声が重なる。
その眼差しは真剣で、グレンは言葉を失った。
私は扇を軽く揺らし、横から口を添える。
「心配はいらないわ。必要な印刷や手配は、すべてカルディナート家で引き受けます。グレンは、あの記録をまとめた形にするだけでいいのよ」
「……ですが、そんな、大事にするようなものじゃ──」
「いいえ。大事だからこそ、です」
私が強く言い切ると、グレンは息をのんだ。
耳まで赤くなり、しばし沈黙ののち、小さくうなずく。
「……わかりました。できる限りのことを、やってみます」
「うむ! 頼もしい!」
教師が両手を打ち鳴らし、顔をほころばせた。
その熱のこもった反応に、グレンはますます居心地悪そうに視線を伏せる。
けれど、その頬はわずかに緩んでいるようだった。
「すぐにでも雛形を整えよう。授業に取り入れるのは早いほうがいい。ベルマー令息、今から私と一緒に作業してくれるか」
「えっ……今から、ですか?」
グレンがわずかに目を瞬かせる。けれど、拒む余地などなかった。教師の声音には、疲れを押しのける勢いがある。
「そうだ。思い立ったが吉日だ。なるべく早く授業で使いたい」
教師は立ち上がり、机の上の書類をかき分けて作業の準備を始めた。
さっきまでぐったりしていた姿が嘘のように、顔には活気が宿っている。
「雛形を整えるのは今日のうちに終えたい。明日、カルディナート嬢の手で印刷に回してもらえるだろうか」
「ええ、公爵家で段取りを整えますわ。購買部に納品できるよう手配しておきます」
「……早く取り入れたいが、準備は必要だな。印刷を明日、購買部への納品をその翌日とすれば──今週中には配布できるか」
教師は満足げに頷き、すぐに紙とペンを取り出す。
呼ばれたグレンは困惑を浮かべながらも、机の脇に立った。
「……はい。精いっぱい、お手伝いします」
静かな返答。けれどその声には、ほんのわずかに誇らしさが交じっていた。
──こうして。
彼の努力は正しく形となり、やがて学園中に広がっていくことになる。




