22.お帰りください、殿下。ヒロインはこちらでお預かりします
やがて観察を終えた頃、そろそろお開きの時刻となった。
玄関前まで出ると、御者が待つ馬車が並んでいる。
「では、そろそろ戻ろうか」
ローレンスが当然のようにミアへと手を差し出す。
その意図は明白だった。王太子自らの馬車に乗せ、隣に座らせるつもりなのだ。
……ここでまた、彼の支配下に置かせるわけにはいかない。
私は一歩踏み出し、淑やかに扇を開いた。
そして、いかにも「悪役令嬢」といった口ぶりで告げる。
「まあ、殿下。ミアさんを隣に座らせるおつもりで?」
その途端、場が静まり返った。
ローレンスが目を見開いている。
「ミアさん、当然わきまえていらっしゃるわよね?」
その声音には、存分に棘を込めた。
一瞬、固まったミアだったが、すぐにぶんぶんと首を大きく振って頷く。
「は、はい……!」
「ミアさんには、公爵邸が用意した馬車がありますわ。殿下は、どうぞご心配なく」
しばらく唖然としていたローレンスだが、やがて得意げな笑みを浮かべ、満足そうに頷いた。
──ああ、その笑顔。本当に腹が立つわ。
「なるほど……そういうことなら、今日はこのまま失礼しよう」
そう言って背を向け、ローレンスは馬車に乗り込んでいく。
ローレンスの馬車が遠ざかっていくのを見送りながら、私は胸の奥で小さく息を吐いた。
きっと、私がまだ彼に未練を残しているのだと、都合よく受け取ったに違いない。
……まったく、お気楽なこと。
「……ノエリアさま」
おずおずと声をかけてきたのはミアだった。
その頬はほんのり赤く、瞳をきらきらさせている。
「わたし……応援します! ノエリアさまと殿下がうまくいくように!」
「ち、違うわよ!」
思わず声が裏返った。
そういうふうに誤解させるようなことを言ったのは確かだが、いきなり応援されるとは思わなかった。
一つ息を吐いて、ミアに向き合う。
「私はただ……あなたを守りたかっただけ。殿下に気持ちなんて、これっぽっちもないわ」
ミアは目を瞬かせたあと、顔を真っ赤にして俯く。
「……あっ……そ、そうなんですね……す、すみません……」
気まずそうに肩をすくめるその姿が、なんともいじらしくて。
──本当に。あんな窮屈な言葉ばかりの殿下より、よほど信頼できる人がすぐ傍にいるというのに。
「……正直、殿下より──」
そこまで言いかけて、私は慌てて口をつぐんだ。
視線が自然と横へ流れてしまう。
グレンの姿が目に入る。
彼はわずかに目を見開いたように見えたが、すぐに伏し目になり、何も言わなかった。
ただ、微動だにせずに沈黙を守るその態度に、胸の奥で小さな波が揺れる。
……続きを悟られた? いや、まさか。
グレンの表情は穏やかなままだったけれど、その沈黙の奥に、何かを押し殺しているような気配を感じた。
微妙な沈黙が流れたそのとき。
ミアがはっと顔を上げた。
「……あっ! 私、筆記具を……温室に置きっぱなしにしてきてしまいました!」
慌ててカバンを探る仕草をして、しょんぼりと肩を落とす。
その様子に、思わず苦笑がもれる。
「大丈夫よ。急ぐわけでもないし、取りに行けばよいわ」
「はいっ。あの……少しの間、お待ちいただけますか?」
「ええ、気をつけて行ってらっしゃい」
ミアは小さく頭を下げると、スカートの裾を揺らして駆けていった。
玄関前には、私とグレンの二人きりが残される。
「……さっきの殿下への言葉運び、とても見事だったわ」
微妙な沈黙に戻らないように言葉を選ぶと、グレンは少し肩を揺らした。
そして周囲を気にするように目を走らせ、声を落とす。
「とても失礼な言い方になりますが……」
彼はためらいながらも、淡々と告げた。
「プライドの高い子どもを相手にするのと、そう変わらないんです。自分の頑張りを認めてもらえれば安心しますし、褒められればもっと頑張ろうとします。そうやって気持ちを落ち着けてあげれば、余計な衝突は避けられるんです」
その真顔ぶりに、思わず笑いがこみ上げてしまった。
「ふふ……王太子殿下に向かって、なんて無礼な表現」
「……ええ。大変無礼なのは承知しています。ただ……ノエリアさまにでしたら、率直な言葉でもお許しいただけるかと」
子どもの気持ちを尊重することを当然のように語る彼の姿に、胸の奥がじんわりと温まる。
──やっぱり、彼は父親に向いている。そう感じた直感は、間違いではなかったのだ。
「……ご存じかもしれませんが、僕は庶子です」
唐突に切り出された言葉に、私は瞬きをした。
グレンはわずかに視線を伏せ、静かに続ける。
「子爵家の庶子として生まれ、平民として育ちました。母が託児所で働いていたので、僕自身もそこで子どもたちと一緒に暮らして……自然と、子どもの相手に慣れたんです」
なるほど、と胸の奥で納得する。
彼の穏やかで辛抱強い物腰は、そういう環境で培われたものなのだろう。
だからこそ、あの王太子相手にも穏やかに立ち回れたのだ。
私が返事をしようとした、そのとき。
「ノエリアさま!」
軽やかな足音と共に、ミアが駆け戻ってきた。
息を弾ませながら、彼女は手に小さな布袋を抱えている。
「これがないと、落ち着かなくて」
恥ずかしそうに笑うミアの姿に、私は自然と頬を緩めた。
「ふふ、慌てて戻ってきたのね。けれど、そんなに急がなくてもよかったのよ」
「はい……! すみません、でも、お待たせしたくなくて」
ミアは深々と頭を下げる。
その素直さに、横に立つグレンも静かに微笑んでいた。
「では、今度こそ寮まで送りましょう」
私が促すと、二人はそろって頷き、公爵邸を後にする準備を整えた。
──こうして今日の観察会は幕を閉じる。
けれど胸の奥には、グレンの言葉と、彼の沈黙の奥に垣間見えた影が、じんわりと残っていた。




