18.声にならない痛みを、見つめられる人に
──違う。
本当に悪いのは、こんな状態を当たり前にしてきた側のはずなのに。
「あなたは、ヴァルドレイン家の……」
私が問いかけると、女子生徒はかすかに頷いた。
「男爵家です。ヴァルドレイン家の、分家にあたります」
やはり、そうか。
本家に楯突けば、何が起きるか分からない。
だからこそ、どれだけ不当な扱いを受けても、声を上げることすらできない。
「──ユリウス・ヴァルドレイン」
私は静かに名を呼ぶ。
「今、彼女の体調について、『魔術師に診せるといい』と言っていたけれど……あなたは、それが誰にとっても当然のことだと思ってるの?」
問いかけに、ユリウスは目を瞬かせた。
「……貴族なら、それが普通だろう? 魔術師に頼れば済む話じゃないか」
その瞬間だった。
「……そうとは、限りません」
かすかな声で割って入ったのは、ユリウスの隣に立つ女子生徒だった。
彼女はうつむいたまま、けれど確かな声音で言葉を続ける。
「うちの領地では、魔術師に診てもらうなんて、そうそうできることじゃありません。田舎ですし、費用も……」
その言葉に、ユリウスがわずかに眉をひそめた。
私は彼女に軽く頷き返してから、ユリウスの方へと視線を戻す。
「普通……ね」
私は、喉の奥で短く笑った。
「あなたにとっては普通でも、誰にとっても同じとは限らないわ。治療の術もなく、苦しみながら生きている人がどれだけいるか──考えたことはある?」
「下々の話をされても……僕は宰相の家の人間だ。国家の仕組みを考えるのが役目であって、個々の貧しい民にまで目を配るのは──」
「それが、あなたの宰相の息子としての意識なのね」
私は、ぴしゃりと言い放った。
「国全体の仕組みを作る立場の人間こそ、見なければならないはずよ。声を上げられない人々の痛みを知らなければならないの。誰が、どこで、何に苦しんでいるのかを」
ユリウスが、初めて真正面から私を見つめ返した。
「治療の行き届かない病──紅魔病のようなものも、魔術が届かない人たちにとっては呪いに等しいのよ。それでも、あなたは目を逸らすの?」
ユリウスは、私の言葉にわずかに視線を落とした。
「紅魔病なら、知っているよ。僕も子供の頃に一度かかったことがある。魔力の流れが乱れる厄介な病気だけど、これは貴族の病だ。治療を受けられる貴族にとっては大したことじゃない」
それが、一般的な貴族の認識なのね。
……でも、私も人のことは言えない。つい先日まで、ろくに意識したことがなかったのだから。
「紅魔病は貴族の病だとよく言われるわね。強い魔力を持つ者ほどかかりやすい。でもそれって、本当に貴族だけの病なのかしら?」
ユリウスが不思議そうに私を見返す。
「平民で発症する例はほとんどないだろう? あったとしても、極めて稀な例で──」
「見えていないだけよ」
私は、静かに、けれどはっきりと告げた。
「魔術師に診てもらえなければ、病気とすら気づかれない。魔力の暴走が原因の症状なら、『変な熱を出して亡くなった』で片づけられることもあるでしょうね。記録にも残らず、声にもならず。見えないまま、失われていく命があるのよ」
教室の空気が、ほんの少し張り詰めた。
「領地を治めるというのは、見えているものに対応するだけじゃ足りないわ。見えていないものに目を向けること。気づかれていない問題を、拾い上げること。それが、為政者の責任じゃないの?」
ユリウスは視線を伏せ、珍しく言葉を継がなかった。
この子も、決して悪意で見下しているわけじゃない。
けれど──知らないことに、想像が及ばないだけ。
私は、そっと息をついた。
「あなたは宰相の息子でしょう? だからこそ、当然の範囲の外側を想像してみる価値があるはずよ」
私の言葉に、ユリウスはしばらく沈黙したまま、視線をさまよわせていた。
教室の空気が、いつの間にか静まり返っている。
魔力の注入を終えた生徒たちが、誰ともなくこちらに注意を向けていた。
その中で、ユリウスはようやく、傍らの女子生徒に目を向けた。
彼女はまだうつむいたままだったが──ふと気配に気づいたのか、そっと顔を上げる。
視線が重なった、その一瞬。
ユリウスの表情が、ごくわずかに変わった。
驚きと、戸惑いと……そして、かすかな後悔の色。
「……君、その……すまなかった」
それは、たどたどしくも、確かな謝罪の言葉だった。
女子生徒は、目を見開き──すぐに、かぶりを振って首を横に振る。
「ち、違うんです。私が……ちゃんと、ちゃんとできなかっただけで……!」
声は震え、必死に絞り出すようだった。
けれどその姿に、私は小さく息を吐く。
──誰かが自分のせいだと抱え込んでしまう、その構造こそが問題なのに。
「……誰も、あなたを責めてはいないわ」
私はそっと言葉を差し挟んだ。
「あなたは、自分にできることをしようとしてきた。ただ、それだけのこと。でも──無理をし続けていたら、いつか本当に倒れてしまうわ」
女子生徒は、目に涙を浮かべたまま、小さく頷いた。
私がそっと背に手を添えようとしたとき──グレンの声が、静かに響いた。
「ノエリアさま……すみません。僕、教師を呼んできます」
私は驚いて彼を見た。
けれどグレンは、すでに扉のほうへと歩き出していた。
その背中に、小さく「ありがとう」と告げる。
彼は振り返らず、軽く手を上げて応えた。
やがて教師がやってきて、女子生徒は一時的に教室を離れることになった。
ユリウスも、少しだけ表情を曇らせたまま、黙ってそれを見送った。
──その様子を見届けてから、私は席へと戻る。
どこか張りつめていた空気が、少しずつ緩んでいくのを感じながら、私は鉢の前に立ち直った。
シュプラウトの芽が、そよ風に揺れる草木のように、小さく身じろぎする。
──まっすぐに伸びるその姿が、ふと目に沁みた。
私は、ゆっくりと息を吐く。
あれだけユリウスを糾弾しておいて、よくよく考えれば──私も、最近になってようやく「後継者」としての自覚を持ち始めたばかりだった。
人の上に立つ責任や、領地を守る重み。
教科書で習っただけでは分からなかったことを、今ようやく実感として噛みしめ始めたところなのだ。
彼の視野が狭いと責めたけれど、それはきっと、かつての私にもあった鈍さ。
むしろ、同じ立場だからこそ、どうしても見過ごせなかったのかもしれない。
「……私も、まだまだだわ」
誰に言うでもなくつぶやいたその声は、シュプラウトの葉先に吸い込まれていった。
すると──すぐ隣で、そっと気配が動いた。
「……ノエリアさまは、すごいと思います」
グレンの低く穏やかな声が、耳元に落ちてくる。
顔を見ることはできなかったけれど、まっすぐこちらを見ている気配だけが伝わってきた。
「さっきの言葉……僕、胸に刺さりました。僕も、もっと見ようとしないといけないんだと思いました」
その声音に、押しつけがましさはまるでなかった。
ただ、共に考えようとしてくれる、静かな真心だけがあった。
私は、少しだけ視線を伏せる。
「……ありがとう。でもね、グレン。私、きっとあなたが思うほど、立派じゃないのよ」
そう返すと、グレンはすぐには答えなかった。
けれど数秒後、まるで何かを噛みしめるように──
「……そうかもしれません。でも、それでも……今のノエリアさまは、とても素敵だと思います」
ぽつりと、そんな言葉が落ちた。
不意に鼓動が跳ねたのは、気のせいだったのだろうか。
私はそっと顔を逸らして、手のひらを鉢の上に重ねた。
指先から流れる魔力に意識を集中しながら、なるべく自然な声でつぶやく。
「……ありがとう。育成、続けましょうか」
「はい」
グレンの返事は、いつものように真面目で──けれど、どこか嬉しそうでもあった。




