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桜の下に咲かぬ詩

 桜の花びらが、職員室の窓ガラスに薄く張り付いていた。


 綾瀬葉月は、コピー機の単調な動作音を聞きながら、明日の授業で使う教材プリントが刷り上がるのを待っていた。時刻は夕方の四時半を過ぎ、他の教師たちはとうに帰宅している。静寂に包まれた校舎の中で、葉月だけがまだ仕事を続けていた。


 今年で教師生活五年目。国語科として、生徒たちに文学の面白さを伝えることに誇りを感じている。それは間違いない。


 でも、授業準備に追われ、保護者対応に時間を取られ、学校行事の調整に頭を悩ませる日々の中で、葉月は時々、胸の奥に空虚な穴が空いているような感覚に襲われることがあった。


 かつて、葉月は小説家になりたいと思っていた。


 大学時代には文芸サークルに所属し、夜遅くまで原稿用紙に向かって物語を紡いでいた。コンクールに応募し、賞には届かなかったものの、編集者から「もう少し経験を積んでから再挑戦を」という言葉をもらったこともある。


 しかし、現実は甘くなかった。卒業が近づくにつれ、安定した職業への道を選ぶことになった。教職課程を取っていたこともあり、教師として就職することを決めた。


 それから五年。葉月は“書くこと”からどんどん離れていった。


 コピー機が最後の一枚を吐き出し、静寂が戻る。葉月は束ねたプリントを机に置き、深くため息をついた。窓の外では、桜の花びらが夕風に舞っている。美しい光景だが、どこか物悲しく感じられた。


 その時、葉月の視線が左手首に落ちた。


 愛用の腕時計――大学の卒業祝いに両親からもらった、シンプルなデザインの銀色の時計――の針が、まるで時が止まったかのように静止していた。


「四時四十四分四十四秒」


 秒針が微動だにしない。葉月は困惑しながら、時計を軽く叩いてみる。つい先ほどまで正常に動いていたはずなのに。


 その瞬間、職員室の窓に不思議な光が差し込んだ。


 白と金の、この世のものとは思えない美しい光。それは桜の花びらを透かして、まるで液体のように窓ガラスを通り抜けてくる。


 葉月は身動きが取れずにいた。あまりに幻想的で、現実離れした光景に、言葉を失っていた。


 次の瞬間、職員室全体が淡い光の霧に包まれた。机も椅子も、コピー機も黒板も、すべてが霧の中に溶けていく。


 葉月の足元から床が消え去り、重力という概念が曖昧になっていく。


 そして、気がつくと――


 葉月は巨大な書架の森の中に立っていた。


 それは、想像を絶する光景だった。どこまでも続く巨大な本棚が、まるで森の木々のように立ち並んでいる。しかし、その本棚に収められているのは、すべて背表紙に何も書かれていない白い本ばかり。まるで物語を待っている空白の書物たちが、静かに佇んでいる。


 足元を見下ろすと、地面は真っ白な紙でできていた。原稿用紙のような升目はなく、ただ純白の紙が無限に広がっている。一歩踏み出すたびに、足音がかすかに響くが、それは紙の上を歩く音ではなく、まるで雲の上を歩いているような、ふわりとした感触だった。


 空を見上げると、天井の代わりに、黒いインクが滴る雲が漂っている。その雲から、時折、一滴ずつインクが落ちてくる。しかし、地面に到達する前に、インクの滴は光の粒子となって消えていく。まるで、書かれることのない文字たちが、空中で蒸発しているかのように。


 そして、最も不思議だったのは、空中を舞っている生き物たちだった。


 万年筆のような形をした鳥が、優雅に羽ばたきながら書架の間を飛び回っている。その胴体は黒いインクで満たされた透明な筒で、翼は白い羽根でできている。時折、その鳥たちが鳴き声を上げるたびに、「カリカリ」という、ペン先が紙をこする音が聞こえてくる。


 別の生き物は、古い羽根ペンのような形をしていた。茶色の羽軸に、ふわふわとした白い羽毛。それが葉月の周囲をゆっくりと旋回しながら、時折、空中に見えない文字を書いているような動作を見せる。


 空気は、紙とインクの匂いに満ちていた。新しい本を開いた時の、あの独特の香り。それに混じって、わずかに甘い匂いもする。まるで、物語を待ちわびる期待感が、香りとなって漂っているかのように。


 葉月は立ち尽くしていた。この美しく、そして静謐な世界に圧倒されて、息をするのも忘れてしまいそうだった。


「よく来たね」


 聞き慣れた声が聞こえた。


 葉月は振り返る。そこには、白い服を着た青年が立っていた。中性的な美しい顔立ち、銀色に近い白い髪、深い青の瞳。まるで時の流れから切り離されたような、現実味のない美しさを持っている。


「あなたは……」


「僕はナオ」青年は穏やかに微笑む。「この神域の主だ。そして君は……」


 ナオは葉月の腕時計に視線を向ける。


「君もまた、選ばなかった未来を抱えている」


 葉月の胸が締め付けられる。選ばなかった未来。その言葉が、封印していた記憶を呼び起こす。


「ここは“書かれなかった物語の世界”」ナオは書架の森を見回しながら言う。「君が綴らなかった言葉たち、完成させなかった物語たち、そして……諦めてしまった夢たちが集まる場所」


 ナオは葉月の前に歩み寄る。その足音は聞こえない。まるで光そのものが歩いているかのように。


「君があのとき、夢を選んでいたら?」


 その瞬間、周囲の書架が変化し始めた。白い本たちが光を放ち、空中に浮き上がって、ページをパラパラとめくり始める。そして、その中の一冊が葉月の目の前に現れた。


 開かれたページには、見覚えのある文字が並んでいる。それは、大学時代に葉月が書いていた未完の小説の原稿だった。


『春の嵐が過ぎ去った後、彼女は――』


 そこで文章が途切れている。あの日、葉月が筆を止めた、まさにその瞬間の原稿。


「これは……」


「君が最後に書いた物語」ナオの声が優しく響く。「そして、君が夢を封印した瞬間でもある」


 原稿のページが風もないのに翻り、新たな光景が浮かび上がる。それは、もう一つの人生の映像だった。


――サイン会の会場で、読者たちに囲まれる葉月の姿。

――編集者と打ち合わせをしている葉月の姿。

――深夜まで原稿に向かい、体調を崩しながらも筆を止めない葉月の姿。


 しかし、その“もうひとりの自分”は、疲れ切った表情をしていた。締切に追われ、読者の期待に応えることに必死で、時には編集者と激しく言い合いをしている。そんな姿も映し出される。


 でも、それでも――


 "もうひとりの葉月"は、決して"書くこと"を手放さなかった。どんなに辛くても、苦しくても、筆を握り続けていた。


 葉月は、その姿に複雑な感情を抱いた。羨望と、そして拒絶。憧れと、恐怖。


「彼女は苦しんでいる」葉月は呟く。「でも……」


「でも、幸せそうに見える?」ナオが問いかける。


 葉月は答えることができなかった。"もうひとりの自分"は確かに苦しんでいる。でも、その表情には、今の自分にはない輝きがあった。


 映像が消え、再び書架の森に戻る。ナオは葉月の前で立ち止まり、静かに語りかけた。


「この場所にあるのは、"実現しなかった可能性"の書架。君が選ばなかった未来は、こうして漂っている」


 葉月がふと気づくと、周囲の書架に並んでいる白い本の数が、さらに増えていた。無数の"自分の物語"が、白紙のまま積み上がっている。


「でも」ナオは続ける。「どの物語にも、君は最後の一行を書いていない」


 その言葉が、葉月の心の奥底に眠っていた真実を突いた。


 諦めたことへの後悔だけではない。今もまだ、書くことを怖れている自分。完璧でない物語を世に出すことへの恐怖。批判されることへの不安。そして何より、自分の才能への疑い。


「私は……」葉月の声が震える。「私は、書くことが怖くなってしまった」


 ナオは静かに頷く。


「恐怖は自然なことだ。でも、それを理由に筆を止めてしまうのは、本当に君の望みなのか?」


 葉月は周囲を見回す。無数の白い本たち。書かれることを待っている物語たち。その一つ一つが、自分の可能性だったのだと気づく。


「書くことで、あの時の自分に戻れるの?」


 葉月の問いかけに、ナオは静かに微笑んだ。


「戻るのではない」ナオは答える。「綴るのだ。"今"という物語の続きを」


 その瞬間、白と金の空間が崩れ始めた。書架が音もなく崩壊し、白い本たちが光の粒子となって舞い上がる。万年筆の鳥たちも、羽根ペンの生き物たちも、すべてが光となって空に消えていく。


 ナオが最後に差し出したのは、一本の万年筆だった。


 それは、葉月が高校時代から愛用していた万年筆――大学受験の時も、文芸サークルで活動していた時も、いつも一緒だった相棒――に、そっくりだった。黒い軸に、わずかにインクの染みが付いている。


「これが、君の"鍵"だ」


 ナオの姿が薄れていく。美しい異世界が、まるで夢から覚めるように消えていく。


 葉月は目を閉じた。


 次に目を開けた時、葉月は職員室にいた。


 机の上には、先ほど印刷したプリントが置かれている。窓の外では、桜の花びらが夕風に舞っている。すべてが元通り。すべてが現実。


 腕時計を見ると、針は「四時四十四分四十五秒」を指していた。


 あの長い異世界での体験は、現実世界ではたった一秒の出来事だったのだ。


 葉月は机の引き出しを開けてみた。


 そこには、古びた万年筆が入っていた。


 まるで、さっきナオから受け取ったかのように。黒い軸に、わずかなインクの染み。間違いなく、自分が昔使っていた万年筆だった。いつからここに入っていたのだろう。


 葉月は万年筆を手に取る。久しぶりに触れるその感触は、懐かしく、そして温かかった。


 職員室を出て、夕暮れの校舎を歩く。桜の花びらが舞い散る中、葉月の心には、久しぶりに静かな決意が宿っていた。


 自宅に戻ると、葉月は書斎の奥にしまい込んでいた原稿用紙を取り出した。真っ白な升目が、まるで可能性の海のように広がっている。


 万年筆にインクを詰め、ペン先を原稿用紙の最初の升目に向ける。


 わずかに手が震えた。でも、それは恐怖ではなく、期待の震えだった。


 そして、葉月は書き始めた。


『春、私は夢を拾いなおした』


 最初の一行を書き終えた時、万年筆が温かく感じられた。まるで、長い眠りから覚めた古い友人が、再び動き出したかのように。


 窓の外では、桜の花びらが静かに舞い続けている。


 葉月は微笑みながら、物語の続きを紡ぎ始めた。

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