クラーク博士
二階、寝室。
窓から差し込む光が、白衣の医者を包んだ。
医者の耳に装着した聴診器は、ハートランドの胸筋に繋がっている。
顎から延びる白髭は、その医者の貫禄を表現しているようだった。
「――……はい、終了です。体温検査、視診、触診、聴診ではお二人とも問題は見当たりませんでした」
聴診器がベッドに腰を下ろすハートランドから離れた。
医者は器具を自前の鞄に戻す。
それから医者は試験管に入った尿を太陽の光にかざした。
眼鏡の奥にある鋭い黒の瞳が、試験管を射る。
「……濁りも、異常な匂いもございません。聞き及ぶかぎりでは、食生活の問題もありませんし、糖尿病を調べるための味見は必要ないでしょう」
ふぅ、とエレナが息を零した。
「心配ないさ」
ローレンスはエレナの肩に腕を回した。
エレナはその手に、頬を預けた。
ローレンスの心臓の叫びが、エレナの体にまで伝わった。
「ふふ、元気ねあなた」
「まだまだ死ぬわけにはいかないさ」
「頼りにしています」
医者は試験管に蓋をして、鞄の中に突っ込んだ。
「……ごっほん。それで、私の見立てによると、まだ私の仕事は終わっていないようですが」
医者は白衣を両手で二、三払い、真下にぶら下げた。
「そうね、クラーク博士には何かと、相談事に乗っていただきましたものね」
「はい……ご安心ください。このことは、たとえ王様であろうと、一切口外しておりません。それは、私の研究成果に誓います」
ローレンスとエレナは顔を合わせ、頷いた。
「……クラーク博士。貴方が私の息子にとって、初めての来訪者だ」
強張ったローレンスの面持ちは、誰もが恐怖の念を抱く。
「もし息子に何かあれば、一抹の不安要素があるならば、そのすべてを包み隠さずに話してほしい」
クラークはいつの間にやら、息をするのを忘れていたらしい。
「あなた、体が熱くなっているわ」
「おや、無意識に気を張っていたようだ。すまない、クラーク博士」
空気に緊張感がなくなると、クラークはどっと、息を吸い込んだ。
「い、いいえ。大丈夫です。私、クラークがお役目を果たして見せましょう」
「ありがとう」
太く、筋肉質な右腕が、クラークの前に差し出された。
クラークは間もなく、手を握る。
「はっ⁉」
クラークはやはり末恐ろしい相手を前にしているのだと、再確認した。
――まるで常人との圧が違う。
握った時の感触でこれ程の恐ろしい背景が見えたのは、クラークにとって初めての出来事であった。
見えたのだ。
戦場で幾千もの人間が、彼の剣の一振りに吹き飛ばされる瞬間が。
「……どうかしたか?」
「いえ、ローレンス殿との握手は初めてでして」
「私が握手を交わす相手は、信頼のおける人物だけだ」
クラークはやはり身震いした。
彼はルイ王に認められた時を思い出す。
まさに今この時と同じように、幸福が全身を震撼させるのだ。
ローレンス・ハートランドとは、それほどの大物であった。
微かに震えているクラークを一瞥し、ローレンスは首を傾げる。
「研究好きな人間は変わった人間が多いと聞くが、火のない所に煙は立たぬとはまさにこのことか」
ローレンスは笑いながら、部屋を出た。
エレナは微笑みながら、「では、アーサーのところに、ご案内いたします」とクラークに前を歩かせた。
クラークは招かれるまま、三階、屋根裏部屋に入った。
驚いたことに、空気は涼やかで床には塵一つなかった。
クラークは、ここでは自分の方こそ汚物ではなかろうか、と、そんな錯覚をしたほどだった。
普通、屋根裏部屋というのは埃っぽく、ネズミが住むような場所と相場が決まっているのだが……余計なものは一切撤去され、中央には小さなベッドと幾つかの絵本、それから大人が座る用の椅子が二つ置かれてあった。
物はそれだけであった。
革靴がニスの塗られた木床を蹴る。
しかし、本当に赤子がいるというのだろうか。
クラークはそんな疑問を抱いた。
あまりにも静かなのだ。
喘ぐような声もなければ、泣いたりもしない。
クラークは先についたハートランド家の二人……否、三人のもとへ歩み寄る。
クラークはベッドをのぞく。
ぱちりと開かれた青色の瞳。
細長くも生え広がる金の髪。
ふくらと肉付く真っ白な肌。
「……おぉ」
クラークは感心した。
「これほど健康そうな赤子は初めて見ました。肉付きもよく、瞳の色は透き通るほどに美しい」
三角形の窓が開かれているようで、涼やかな空気がクラークの頬を泳いだ。
「瞳の色は健康と何か関係があるのだろうか」
ローレンスが首を傾げ、疑問を呈した。
「あ、いえ。ただ、純粋に美しいと思ったのでありまして……」
クラークは妙な羞恥心を感じ、
「ただ、これほど純粋に透き通る青色ですと、光に対する感受性が高く、光に対して不快感を覚えることもありますが、しかしまだ成長過程にありますので、今の段階では直射日光を避けるといいでしょう」
沈黙が続いた。慌て気味に答えたクラークは、しまったと、患者に寄りそう心を忘れたことに悔恨を覚えた。何か、誤魔化し――否、謝罪の言葉を口にしようかとした、その時だった。
「い、しゃ! い、しゃ!」
下から声が伝ってくる。
「あら、アーサー、どうしたの?」
「っ⁉」
「まあ、そう驚くな、クラーク」
「で、ですが」
「この子はもう、意思疎通が図れる」
クラークは愕然とした。
「……や、やはりハートランド家は、やはりっ!」
クラークは興奮のあまり、一気に心拍数が上がった。
知的好奇心が沸き上がる。
全身の血が騒ぐ。
すぐに白衣のポケットに突っ込んでいた白紙を取り出す。
鉛筆を握り、
「すいませんがっ、少しだけ知能検査をしてもよろしいでしょうか!」
ローレンスは困ったようにエレナを見て、
「アーサーが頷けば」
「そうね」
二人は妥協案を出した。
「どうでしょう⁉」
クラークが急いでアーサーに振り返り、そう尋ねる。
「あう」
クラークはアーサーの真意がわからず、ローレンスに視線を送った。
「どうやら、承諾したようだ」