幼子
アーサーが半歳を過ぎ去ろうという頃合い。
夜に寝、朝遅くに起きるといった生活様式が板についてきた、そんなある日の夕暮れのこと。
アーサーの母となる、エレナ・ハートランドは、アーサーに思い出を語った。
それは、エレナがハートランドの名を授かる前の話だ。
「この森を抜けた先には、王都があってね。とっても大きい街で、沢山の人が暮らしているのよ。城の近くには学院があって、立派な建物だけれど王城はもっと立派で、多くの学生は王城に強い憧れを抱いたものだわ。だからね王子様が通うとなったら皆、大騒ぎするでしょう? 勿論、私も王子様を一目見ようと群衆の中で精一杯、背伸びしたわ。でもね、私が目に入ったのは王子様ではなくて、王子様の近くにいた貴方の父親だったのよ」
窓の先にある森林に目線を置いたエレナは過去の記憶に浸るように口を閉じた。
アーサーはエレナの顔に向かって手を伸ばした。
エレナがそれに気づいたのは、すぐのことだった。
「ん? どうしたの、アーサー」
「……ええあ、ええあ」
「っ⁉」
蠟燭の明かりが揺れた。
西日がエレナの白い頬を焦がした。
その頬に涙が通り過ぎた。
「ああ、なんて、なんてことでしょう。私は、私は……!」
瞳から溢れたエレナの涙が、アーサーの頬に滴った。
「ごめんなさい。大丈夫と、守ってみせると誓ったのに……私には何の力もないのです……ごめんなさい」
その言葉を最後にエレナは嗚咽した。
アーサーが必死にエレナに手を伸ばそうとする度に、彼女に激情が走る。長い間我慢してきた負の感情を、エレナは涙を流すことで吐き出していった。
革靴が木の床を蹴る音が響いた。男が駆け足で寝室に入り込んだ。
「エレナっ……大丈夫かい?」
エレナ首を横に振った。横隔膜の痙攣の所為か、呼吸が酷く乱れていた。男の筋骨隆々な腕の先にある掌が、女の丸まった背中を優しく摩る。エレナは震えていた。
「ごめんなさい……私が……私が、あなたを、無理に押し倒したからっ」
「何をいうんだ、選択したのは私自身だ。エレナとの子を望んだのは私の方だ」
男は窓辺の椅子に座るエレナと、彼女に抱かれたアーサーを抱きしめた。
「大丈夫だよ、エレナ。私が、ハートランドが傍についているじゃないか」
男はエレナの耳元で呟いた。
「でも、あなたは……」
「ああ、そうだ。だから、私の全てをアーサーに注ぐつもりだ」
男は拘束を解いて、肩にかけていたタオルを窓際の机上に置いた。
男の髪はしめっている。風呂上がりだった。
「いずれは露見する。幸いなことに、ルイ王にも最近、二人目の子が生まれたらしい。子孫を残さないという約束は反故になるが、ルイ王なら短絡的なことはしないはずだ。それに森の館に二人で暮らすことを許可してくれたお方だ。まさか予想外の事態だなんて言うまい」
「……私がわがままを言ったばかりに、本当に、ごめんなさい」
男は沈黙のまま、女の傍に近づき、ひょいとお姫様抱っこをした。
そのままベッドに連れていき、川の字を作った。
「エレナ、見て」
男の視線は、手元のアーサーにあった。
「はい」
「こんなにも可愛い子を授かったんだ」
「はい」
「ごめんなさいはもうやめにしよう。天使を授かったことに対する感謝に変えようじゃないか」
いつの間にか眠ってしまったアーサーを眺め、二人は頬を緩ませた。
「……そうですね、本当に、見ているだけで癒されるわ」
「ああ、その通りだ」
「私は心底嬉しい。愛する女性と暮らし、子供まで授かった。私は幸せ者だ」
「あなた……」
二人は唇を重ねた。しばらく見つめ合った。再び、キスをした。
既に窓からの光はなくなり、蠟燭の光だけが頼りとなった。二人は思い出話を繰り広げた。途中からは未来の話も加わった。
呼吸も落ち着き払ったエレナは、そういえば、と話を切り替えた。
「アーサーが先ほど、私の名前を口にしたのですよ」
「えっ、それは本当かい⁉ まだ生まれて半年だというのに」
「大分骨格もしっかりしてきて、顔の発達なんて、まさに黄金比ですよ」
「それもこれも、ハートランドの心臓故だろう」
「今日読ませていただいた文献には、心臓の第一期成長期とありましたが……」
「そうだ。お蔭でハートランドの名が、繫栄することはなかった」
それが何を意味しているのかを、二人は解っていた。
男は女の手を握った。
「ところで、明日になればアーサーはローレンスと呼んでくれるだろうか」
「明日になれば、きっと……でも、明日は」
エレナの語る言葉が途切れ途切れとなっていく。
睡魔が彼女を襲っているようだ。
「エレナ、もう寝よう。すっかり疲れてしまったようだ……」
アーサーの父、ローレンス・ハートランドは息を吸い、軽く吐いた。
空気の塊が直線を描く。
窓辺の机上に立てかけた蝋燭の火が消えた。
二人の寝息が闇に浸透していった。
「おやすみ、エレナ、アーサー」