第3話「町の輪の外で」
異世界で迎える二日目の朝。
清水直人は、まだ見慣れぬ石畳の町を歩き、広場の片隅で昨日の少女――ミアの姿を見つけた。
金色の髪は陽に透け、やせた頬を風にさらして、ミアはひとりで黒パンをかじっている。丸めた背中が、小さな体をさらに小さく見せていた。
町の広場には、崩れかけた噴水や古い石碑があり、その周囲には老人や婦人たちが小声で語り合っている。
親子連れの姿もあるが、どのグループも自分たちだけの輪をつくり、誰も外の者には干渉しようとしない。
子どもたちも数人で固まって走り回っているが、その中心にミアの姿はない。
(身内同士では助け合いが残っている。けど、ミアみたいな“孤児”や俺みたいな“外から来た者”は、輪の外のままだ――)
直人はそんなことを考えながら、そっとミアに声をかけた。
「おはよう。眠れたか?」
ミアは一瞬だけ顔を上げるが、すぐに視線を落とした。
「……うん」
短い返事。でもパンを両手で大切そうに持っている仕草が、言葉より多くを語っていた。
「パン、ちゃんと食べてるか?」
「……これだけだよ」
「もし足りなかったら、言ってくれ。できる範囲で、また分けるよ」
ミアは一瞬、直人をじっと見つめ、何かを言いかけたが、小さく首を振った。
「……ありがと」
かすかな声だった。
*
広場の一角では、老夫婦が朝市の準備をしていた。
けれど、並べられる野菜や果物はどれも小ぶりで、数も少ない。
市場には子どもたちが集まってきては、店先のパンをじっと見つめている。ミアは少し距離をとって、それを眺めているだけだった。
直人が市場を歩いていると、昨日世話になった老人が近づいてきた。
「少しは町の暮らしに慣れたかい?」
「ええ、まだ戸惑ってばかりですが」
老人は広場の端に腰を下ろし、直人も隣に座る。
「昔は、町の誰もが困っている人には手を差し伸べたもんだ。今でも顔なじみや身内にはそうするが……ミアのように親を失った子や、あんたのような外から来た人には、どうしても慎重になってしまう。
それぞれの家も、もう余裕がなくなっているからな」
「ミアちゃんは、この町で生まれ育ったんですね?」
「そうさ。両親は数年前の疫病で亡くなった。あの子は物心つく前から町の輪の外で生きている。昔から知っている者も多いが、今は誰も余計な手は出せないのさ。
昔は、町に孤児が出れば、みんなで面倒を見たもんだが……」
老人は遠い目をした。
「町の暮らしもすっかり変わった。今は“自分たちだけで精一杯”という家がほとんどだ」
「それでも、ミアちゃんは生きている」
「うん、あの子はしぶといよ。優しいところもある。こっそり自分より小さな子にパンを分けてやったりな」
直人はそっと、広場の隅で子どもたちを眺めているミアを見た。
ミアは他の子どもに話しかけられることもないが、遠くで石を蹴って遊ぶ小さな男の子が転んだとき、すっと駆け寄って手を差し伸べていた。
その手を取った子どもは、はにかんだ顔で礼を言い、すぐにまた仲間の輪に戻っていった。
ミアは静かにその様子を見届けると、またぽつんと広場の端に戻った。
(孤児というだけで、町の輪の外に押し出されてしまうのか――
日本でも、誰にも頼れずに生きるしかない子どもがいた。
……俺も、会社で“必要ない存在”になったときのあの孤独を思い出す)
*
昼前、老人に誘われて畑仕事を手伝うことになった。
小さな鍬を手に、柔らかな土を耕す。老人たちは「ありがとう」と声をかけてくれるが、どこか“様子見”するような視線も感じる。
町の輪の中心は、そう簡単に広がらないらしい。
「若い力があるのはありがたいが、町の人間がすぐに誰かを信じることはない。焦らず、自分のできることを少しずつ探しなさい」
「……はい」
直人は返事をしつつ、かつて現場で新入りが苦労した日々や、ベテラン同士が自然と助け合う姿を思い出していた。
町の空気も、それと似ている――“昔からの仲間”には温かいが、“外”にいる者には無言の壁があるのだ。
*
夕方、広場に戻ると、ミアがほかの子どもたちに囲まれていた。
パンを手にしていたが、何人かの子どもたちはミアに石を投げてからかったり、「お前のパンはきたない」「親がいない子は輪に入っちゃだめなんだ」と冷たい声を浴びせる。
直人は思わず駆け寄った。
「やめなさい!」
子どもたちは驚いた顔で逃げていった。
ミアは黙ってパンの袋を拾い、服についた埃を払う。
「平気。いつものことだよ」
「……でも、寂しくないか?」
「……少し、だけ」
ミアはちらりと直人を見上げた。その瞳の奥には、小さな決意と、まだ捨てきれない夢のかけらが揺れていた。
「ねえ……パンって、もっとおいしくできるの?」
「え?」
「夜、夢で“パンを焼くきれいなお姉さん”が“本物のパンの作り方”を教えてくれるの。……けど、うまく作れない」
直人ははっとした。
「その“お姉さん”……どんな人?」
「髪が長くて、白い服で、すごくやさしい匂いがする。名前は、わからない。でも……なんだか本当にいる気がするの」
ちょうどそのとき、老人が近寄ってきた。
「もしかしたら、それが“料理人の精”――リュシアンナかもしれんな。昔、この町には伝説の料理人がいて、今も町のどこかでみんなを見守っているって言い伝えがある。
子どもたちの夢にも、たまに現れるらしいよ」
ミアは小さく首をかしげ、「精霊さんなの?」とぽつりと呟く。
「精霊かどうかは分からない。でも、昔のパンや料理には不思議な力が宿っていた――そんな話を、俺も子どものころ聞いたよ」
直人は、心の奥で何か温かいものが灯るのを感じていた。
(リュシアンナ――この町の“眠れる料理人”。ミアとなら、もしかしたら“夢”を現実にできるかもしれない)
輪の外で生きる二人。けれど、だからこそ新しい“きっかけ”を作れるかもしれない。
直人は、そんな小さな希望を胸に、暮れていく町の空を見上げた。