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第1章 異世界転移と廃墟の町 第1話『退職の日』

 ジリリリリ――。


 目覚まし時計の控えめな電子音が、六畳一間の安アパートに響く。清水直人は静かに目を開けた。すっかり白髪が混じった髪、深いしわの刻まれた顔。老眼鏡をかけ、寝癖を直す。六十歳。かつて夢中で働き、家庭を築いた男の姿は、今やこの静かな部屋の中にしかなかった。


 今日が、四十年以上務めた会社の最終出勤日だ。


 古びた流し台の前で水を飲みながら、直人はぼんやりと“終わり”の気配を感じていた。

 家族は数年前に妻を亡くし、子どもたちは遠くで家庭を持った。今は年に数度のメールが届くだけ。自分の人生は、会社と家との往復だけだった。


 だが、その会社ですら、今や“居場所”ではなかった。

 町工場から始まった老舗のメーカー。直人は現場ひと筋で生きてきた。機械油にまみれ、手のひらに無数の傷を刻み、部下の失敗も自分がすべて背負った。

 だが時代は変わり、外資傘下となった会社では、効率や利益しか語られなくなった。現場の声も、地道な改善も、すべて“コスト”の一言で切り捨てられる。

 経営陣は古参の現場技術者を煙たがり、「希望退職」と称するリストラが横行した。


 「清水さん、あなたもそろそろ身の振り方を考えた方がいいですよ」

 人事の若い課長が、まるでマニュアルを読み上げるようにそう言った。

 (お前みたいな古株は、もう要らない――)

 その言葉が胸に突き刺さった。

 守ってきた現場も、背負った責任も、誰も覚えていない。

 もう自分の居場所は、どこにもない。


 最後の朝食を取り、慎重にスーツに袖を通す。少し痩せた肩。昔はよく映えたネクタイも、今は少し色あせている。

 鏡に映るのは、“老い”を否応なく感じさせる男の顔だった。


 満員電車に揺られながら、直人は窓の外を眺める。

 この十年で、仲間たちはみんな去っていった。定年まで勤め上げた者はわずかだった。

 若い社員の声は元気で、だが自分の人生にはもう交わらない。

 降りた駅から会社までの道も、何万回も歩いたのに、今朝は妙に遠く感じた。


 タイムカードを押す。

 「今日で最後ですね」と、そっけなく声をかける同僚たち。

 だが、彼らの瞳の奥には、どこか羨ましさと、ほんの少しの同情が浮かんでいた。

 引き継ぎ資料を渡し、後輩にやり方を説明する。

 デスクの私物は紙袋一つに収まった。


「長い間、お疲れさまでした」


 若い課長が機械的に頭を下げる。

 直人は、わずかに口元を歪めた。

 (お前たちも、いずれ“使い捨て”になる日が来るぞ――)

 そんな苦々しい思いが一瞬、頭をよぎったが、口には出さなかった。


 昼休み。

 社屋の裏手、小さな公園で紙パックのコーヒーを飲みながら、直人はぼんやりと過去を思い返した。

 かつて守れなかった部下の顔。誰にも認められなかった小さな成功。

 「あなたがいたから、この職場はまわったんですよ」と笑ってくれた女性事務員の顔。

 すべては過去だ。今はもう、振り返っても仕方がない。


 (俺の人生は、誰かの役に立ったのか……)


 自分の手のひらをじっと見つめる。

 そのごつごつとした手が、かつては多くの人やモノを支えてきたことだけは、確かだった。


 午後三時。

 総務で退職手続きを済ませ、社員証を返却する。

 最後にフロアを一望した時、思いのほか静かな気持ちだった。


 会社を出ると、外は刺すような夏の日差しだった。

 駅前のベンチに腰を下ろし、スマホを開く。

 家族からは「体に気をつけて」とだけ、短いメッセージが届いていた。

 もはや自分の人生は、誰かに必要とされるものではなくなったのだと痛感する。


「これから、俺は……どう生きればいいんだろうな」


 誰にともなく、呟く。

 言葉は夏の空気に溶けて消えた。


 ふいに、体の奥に重だるい違和感を覚えた。

 立ち上がろうとした瞬間、足元がふらりと揺れる。


 ――グラリ。


 頭の中で何かが崩れるような音がした。

 次の瞬間、全ての感覚が遠ざかっていく。


(まさか、俺……このまま――)


 最後に意識に浮かんだのは、誰にも感謝されなかった長い人生への悔しさと、

 それでもどこかで「もう一度、やり直したい」という、静かな渇望だった。


* * *


 水の中からゆっくり浮かび上がるような感覚――

 直人は、重いまぶたを持ち上げた。


 目に映ったのは、見知らぬ天井だった。

 木材がむき出しになった屋根、乾いた藁の香り。


 頭を起こそうとした瞬間、自分の体に違和感を覚える。

 肩が軽い。

 背中や膝が痛くない。

 手を見つめれば、皺ひとつない若々しい手。

 力を入れると、柔軟な筋肉がしなやかに動いた。


「……な、なんだこれ」


 自分の声までが、若い――二十代の青年のようだった。

 慌てて起き上がると、体が驚くほど軽い。

 膝も腰も痛くない。視界も鮮やかだ。


(嘘だろ……俺は六十歳だったはず……)


 鏡を探すが、小屋の中にそれらしいものはない。

 窓ガラスに映った顔は、見知らぬ若者のものだった。


 頭が混乱する。

 夢を見ているのか、死後の世界なのか。

 両手を何度も握りしめ、頬をつねる。


 それでも、現実感はどんどん増していく。


 小屋の扉を開けると、陽射しが目に痛いほどまぶしかった。

 外には、石畳の道と崩れかけた家並み。

 畑では老人が鍬を振るい、遠くで鶏が鳴いている。


「どこだ、ここは……」


 心細さを押し隠しながら、しばらく辺りを歩く。

 自分の体が若いことに、信じられないような感動と戸惑いが入り混じっている。

 走ってみれば、息も切れない。

 手足を思い切り伸ばせば、昔のように自由に動かせる。

 だが、その心の奥底は六十年分の記憶と老いに染まっていた。


 やがて、道端で腰を下ろす老人に声をかける。


「あの、すみません……ここは、どこでしょうか」


 老人は、しばらく不思議そうに直人を見つめてから、にこやかに笑った。


「旅の者かい? ここはフローヴェルドという町だよ。……昔は賑やかだったが、今はもう、見る影もない」


 町の名を口の中で何度も繰り返す。


 老人は、さりげなく町の過去や現状を語ってくれた。

 直人は聞きながらも、心の中で何度も自分の若い手を握りしめていた。


(こんなことが本当にあるのか……

 でも、もしこれが“やり直しの人生”なら――)


 そう思った瞬間、胸の奥に小さな灯がともった気がした。


 だがまだ、戸惑いと不安は消えない。

 六十年分の疲れと後悔は、そう簡単には消えないのだ。


 直人は、異世界の静かな町の中で、ゆっくりと歩き出した。

 その一歩が、彼の新しい物語の始まりになるとも知らずに――。

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