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声聞きたくなった

退院の日。夕食を終えて薬を飲んだ後、俺は病室のベッドに横になっていた。体中の痛みはまだ完全に消えていないが、起き上がれないほどではなかった。


俺は病院着から私服に着替え、夜の病院の廊下はひっそりと静まり返っている。タクシーを拾い、東京の夜景をぼんやりと眺めながらBLUEwideへと向かってもらう。久方ぶりに見る車窓を流れる街の光が、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。


定休日で閉まっていた店は、いつもと違う空気をまとっていた。シャッターが半分下ろされ、入り口の明かりだけがぼんやりと漏れている。重たい扉を開けて中に入ると、店長が一人、カウンターで翌日の準備をしているのが見えた。グラスを磨く音が、静かな店内に響いている。


「店長…」

俺の声に、店長は驚いたように顔を上げた。グラスを磨く手を止め、じっと俺の顔を見つめる。


「橋宮くん…あれから大丈夫かい?元気になった?」

「はい。少しだけ。気が落ち着かなくて…。店長に直接お礼を言いたくて来ました。本当に、ありがとうございました。あの時、助けてもらえなかったら…俺どうなってたか…」


俺は頭を下げた。店長は小さく息を吐くと、俺の肩を優しく叩いた。その手のひらの温かさが、俺の心にじんわりと染み渡る。


「まあ、せっかくだ。店も閉めたばかりだし、少し付き合ってくれるかい?」

店長はそう言ってグラスを二つ取り出し、使い慣れた手つきでウイスキーのボトルを傾けた。俺のグラスには控えめに、店長のグラスにはたっぷりと琥珀色の液体が注がれる。カラン、と氷の音が静かな店内に響いた。


「まさか、店長とサシで飲む日が来るとは思いませんでした。」

俺は少し照れくさそうに笑った。

「はは、君も色々あったからね。少しは気分転換になるかなと思ってさ。これうちで一番いいウイスキーなんだ。ゆっくり味わっておくれ。」


店長はウイスキーを一口含むと、満足そうにゆっくりと目を閉じた。俺もグラスを口に運ぶ。喉を焼くような感覚が、体の内側からじんわりと温めてくれるようだった。痛みで冷え切っていた体が、少しずつ溶けていくのを感じる。


他愛もない話をした。店の愚痴や、最近の新人の話、時には店長自身の昔の苦労話も混じる。店長は俺の怪我について深くは聞いてこなかったが俺が話せる範囲で入院中の出来事や、退院後の不安などを穏やかに聞いてくれた。店長の落ち着いた声を聞いていると、張り詰めていた心が少しずつほぐれていくのを感じる。


すると店長は静かにグラスを置いた。その表情は、どこか遠い過去を懐かしんでいるようにも見えた。

「僕もね、若い頃は君みたいにがむしゃらに突っ走って、色々な壁にぶつかってきたよ。失敗もたくさんした。振られた彼女の借金負わされたり、マンション追い出されたりもしたさ。でもねそういう経験の一つ一つが、今の自分を作っているんだよ。」

店長は俺の目を見つめて続けた。


「人生ってのはさ、どうしても避けられない痛みや苦しみがあるんだ。だけどそれをどう乗り越えるか、どう向き合うかで、人は大きく変われる。君は大きな壁にぶつかった。でも、君は一人じゃなかった。僕ら仲間もいたし、君を心配してくれる人だっていた。」


その言葉に、俺は涼香さんの顔を思い浮かべた。あの夜、俺のそばで涙を流してくれた涼香さん。店長はおそらくそのことを知っているのだろう。けれど店長は俺のために直接的な言及を避け、俺自身の内面を促すような言葉を選んでくれていた。


「誰かのために自分を顧みずに行動できることは、本当に素晴らしいことだよ。でもね、橋宮くん。自分のことを大事にできることも、同じくらい大切なことなんだよ。自分自身が満たされていないと、だれかを支えることはできないからね。」


店長の言葉は、俺の心に深く染み渡った。そのすべての言葉が心に秘めた思いのすべてを的を得ているようで、なんだか声が出なかった。俺は、ずっと自分を責め続けていた。涼香さんを守りたいという気持ちを傲慢なものだと思い込んでいた。けれど店長は俺の気持ちを否定することなく、俺自身の成長と自己受容の必要性を説いてくれた。


「…ありがとうございます。なんだか、すっきりしました。」

俺は何とか声を絞り出してそう言った。


「そっか。そりゃよかった。ま、男はそうやって、少しずつ大人になっていくんだよ。無茶もほどほどにね。」


店長は、再びウイスキーを口に運んだ。時計を見るともう23時を過ぎていた。そろそろ終電も危ない時間だ。


「そろそろ帰ります。本当に、ありがとうございました。」

俺は深々と頭を下げた。店長は無言で頷き、軽く手を振った。その表情はどこか安心しているようにも見えた。


雨はまだ降っている。店を出て、コンビニでビニール傘を一本買った。湿った夜の空気と、冷たい雨粒が肌に触れる。コンビニを出たその時、ポケットのスマホが震えた。画面には涼香さんの名前が表示されていた。俺はすぐさま電話に出た。


「もしもし、涼香さん…?どうかしましたか…?」

「橋宮くん、身体は大丈夫?」

電話先の涼香さんの声は少し寂しげがあった。声を聞けた安心感と、その寂しさからくる不安さになんだか心が揺らいでいるのを感じた。


「はい、今日退院してもうほとんど治りました。」

「そっか。…あのさ、今何してる?」

その質問に俺の心は揺さぶりを増した。一体どういう意図でこの質問をしているのだろうか。そう思うと色んな思考を経た末に言葉を紡いだ。


「今、BLUEwideに顔出してたとこです。店長と飲んでたんで。」

当たり障りのないそのままのことを説明した。


「あ、そうなんだ…、、」「…え?」

なんだか曖昧な返答に思わず困惑した。


「ご、ごめんね、なんでもないんだ。ただ身体が大丈夫か、心配で…」「ほんと、ですか…?涼香さんなんかありました…?」

本能的に何かがおかしいと悟った。何かを隠しているような、そんな感覚。


「ほんとなんでもないよ。ただなんか、声聞きたくなったというか…」

涼香さんは震えるような声でそう言っていたが、傘に雨が当たる音であまり聞き取れなかった。けれど涼香さんに元気がないことだけがしっかりと分かった。


「え…今なんて、」「ごめんね、ほんと気にしないで。身体気をつけてね。おやすみ。」

そう言うと涼香さんは電話を切った。電話が切れた瞬間、俺は思わず走り出した。確証も何も無いけれど駅に向かって足を止めることなく走り続けた。アスファルトに雨が打ち付ける音と、吹き当たる風の音が耳に響いた。


すると、目の前を見覚えのある車が通った。涼香さんの彼氏のスポーツカーだった。駅から真反対に走るその車に、涼香さんの姿は無かった。嫌な胸騒ぎがした。胃のあたりがキュッと締め付けられる。


俺は走るスピードをあげ、駅に向かった。駅前に着くと、夜遅くの人通りの少ない駅に人影が見えた。雨の中だというのに傘もささずにしゃがみこんだ人影の姿だった。俺は息をのんだ。それは涼香さんだった。


髪は濡れそぼり、薄手のブラウスは雨に濡れて肌に張り付いている。普段の完璧に整えられた姿は見る影もない。雨に濡れたその顔色は真っ青だった。その体は、寒さに震えているのかそれとも別の理由からか、小さく震えていた。顔には憔悴と、深い絶望の色が浮かんでいる。まるで、何かに怯えているかのように膝を抱え、小さく身を縮めていた。こんな夜更けに一人で雨の中に。


「涼香さん…?」

俺は思わず駆け寄っていた。若干残った怪我の痛みも、冷たい雨も、すべてがどうでもよかった。俺の声に涼香さんはゆっくりと顔を上げた。その瞳が俺の顔を捉えると一瞬驚きに目を見開いた後安堵と、そして再び深い悲しみが混じり合った表情になった。


俺は、手に持っていたコンビニの傘を彼女の頭上に傾けた。「大丈夫ですか…?」


そう問いかけた時、涼香さんはこちらに手を伸ばして、俺に強く抱きついた。突然の出来事に理解が追いついた時には、涼香さんは俺の肩に顔をうずめて泣いていた。思わず俺は傘を持っていないもう一方の腕で涼香さんをぎゅっと抱きしめた。

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