なら良かった
涼香さんの温かい涙と、震える手の感触が俺の心にじんわりと染み渡る。これほどまでに感情を露わにする涼香さんを見たのは初めてだった。彼女は本当に俺が傷ついたことに対して深く責任を感じている。
「涼香さんは全く悪くないです。俺も無事でしたから。」俺は痛む体を無理に起こし、必死に言葉を紡いだ。涼香さんの苦悩を少しでも和らげたかった。彼女が自分を責める必要はないと伝えたかった。それが、俺にできるせめてものことだと思った。
彼女はただ、握りしめた俺の手をさらに強く握り俯いたまま静かに涙を流し続けている。その手は内に秘めた思いが伝わるほどドクドクとしていて、不思議とずっとこうしてたいと思ってしまった。
「もう、橋宮くんに迷惑かけないから...」
か細い声だったが、その言葉には決して揺らがない強い決意が込められていた。俺は驚き、顔を上げる涼香さんの目を見つめた。潤んだ瞳の奥に、確固たる光が宿っている。
俺の怪我が、彼女を苦しみから解放するきっかけになったのなら、それは喜ぶべきことなのだろうか。それともやはりこの痛みは、俺の身勝手な願望の報いなのだろうか。
「涼香さんも...気をつけてくださいね...」
俺はそれ以上の言葉が見つからず、ただそれだけを言うのが精一杯だった。涼香さんは小さく頷くとゆっくりと立ち上がった。
「ありがと。今日は帰るね。早く良くなって。…私、ちゃんとするから。」
彼女はそう言い残し名残惜しそうに俺の顔をもう一度見つめると、少し微笑んで病室を後にした。残されたのは、涼香さんの香水の甘い残り香と、握られた手のひらに残る彼女の温もりだけだった。
涼香さんが病室を去ってから、俺は数日間病院で静養することになった。体は日に日に回復していくが、心の傷は簡単に癒えるものではなかった。あの男に殴られた痛みも、涼香さんに見られた恥ずかしさも、すべてが俺の心を深く支配していた。
彼女は今、彼と向き合っているのだろうか。また、あの男が逆上して、涼香さんを傷つけるようなことはないだろうか。そんな不安が、常に俺の心を締め付けた。
食事も喉を通らず、ただ横になるだけの時間が続いた。体を動かせないことで、思考はさらに深く沈んでいく。俺は本当に、彼女にとって「助け」になったのだろうか。それとも、単なる厄介事を増やしただけだったのではないか。自問自答を繰り返すたびに、後悔と無力感が募っていった。
涼香さんは今、何を考えているのだろう。俺の怪我のことで、自分を責め続けているのだろうか。それとも彼との関係に終止符を打てたのだろうか。涼香さんが帰ってからの数日間、目まぐるしくそのことをずっと考えていた。
気がつけば周りは夜で、窓の外はまた雨が降り始めていた。冷たい雨粒が窓ガラスを叩く音が俺の心をさらに深く沈ませる。
その時、枕元に置いていたスマホに電話が鳴った。知らない電話番号だった。小気味悪さに一気に身の毛がよだつのを感じた。まさかあの男が掛けてきたのか、もし出たら何を言い出すのだろうか。考えただけで俺は恐怖に駆られた。
俺は怯えつつも携帯を持ち、点滴のキャスターを転がしながらトイレへと駆け込んだ。まるで全てを急かすように手に持ったスマホが振動している。ガチャガチャと個室に駆け込み、息を整える。この後どんな言葉が飛んできても怯まないように、意を決して電話に出た。
「はい...もしもし...?」
相手を伺うように、電話に出た。呼吸を整えたはずなのに声が強ばってしまった。恐怖に駆られそうになっていたら相手の返答が来た。
「もしもし?橋宮くん...?」
出たのは、予想外の相手だった。優しくて、透き通るような、安心するその声は間違いなく涼香さんだった。涼香さんの声だと分かった瞬間、俺の全身から力が抜け、安堵の息が漏れた。
「涼香さん…?どうしたんですか、こんな時間に…」
俺は震える声で尋ねた。心臓がまだ高鳴っている。個室の狭い空間が、やけに息苦しく感じられた。
電話口の向こうで、涼香さんは小さく息を吸い込む音がした。
「ごめんね、こんな時間に。今仕事終わってさ、店長から勝手に番号聞いて掛けちゃった。...心配で。」
その言葉に、俺の胸が温かくなった。彼女が、純粋に俺を心配して電話をかけてくれたのだと分かった。あの彼氏のことではない、ただ俺を気遣う気持ち。その事実に、俺はひどく安堵した。
「いえ…大丈夫です。もう、かなり良くなりました。」
俺は、できる限り明るい声を出そうと努めた。彼女に余計な心配をかけたくなかった。
「ほんと?店長さんから聞いて…ひどいって…」
涼香さんの声が、少しだけ潤んだように聞こえた。やはり、あの時の俺の姿を鮮明に覚えているのだろう。
「もう全然です!明日には退院できると思いますし、すぐ仕事にも戻れますよ。」
そう言って、努めて明るい声を出してみる。嘘ではない。回復は順調に進んでいる。
「そっか…なら、よかった。安心した。」
涼香さんの声に、安堵の色がはっきりと見て取れた。その声が、俺の心を穏やかにしていく。
「凉香さんは…その、その後、大丈夫ですか?」
俺は恐る恐る尋ねた。相手があんな性格だと分かってから、涼香さんの安全を願うばかりであった。殴られた当てつけかもしれないが。
「うん…大丈夫。まだ、色々考えなきゃいけないことはあるけど…でもちゃんと、向き合ってみる。橋宮くんのおかげで少しだけ勇気が出たから。」
彼女の声には、以前のような深い苦悩は感じられなかった。代わりに、静かで、しかし確かな強さが宿っているように思えた。
「そっか。何かあったら、いつでも連絡してください。話を聞くことくらいしかできませんけど…」
俺は彼女の力になりたいと心からそう思った。それはあの夜、彼女の弱さを見た時からずっと抱いていた感情だった。
「ありがと。…でも、迷惑はかけないって決めたからさ。私もちゃんとしなきゃ。」
その言葉には優しさと同時に強い覚悟があるように思えた。
「じゃあ、無理しないでね。ゆっくり休んで。」
涼香さんはそう言って、電話を切った。受話器を耳から離すと、まだ熱を持っているのがわかる。スマホを握りしめたまま、俺は個室の壁にもたれかかった。
涼香さんは、俺を心配して電話をかけてきてくれた。そして彼との関係にも前向きに向き合おうとしている。俺の行動が彼女の背中を押せたのかもしれない。
痛みはまだ残っているが俺の心には、温かい光が差し込んできたようだった。この痛みも、無駄ではなかったのかもしれない。俺は彼女のために、もっと強くなりたいとそう強く願った。