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7/10

全部私が

「そっか。じゃあそういう方向でまた彼と話し合ってみるね。ありがと。」

スタッフルームでの深い会話から数日後。涼香さんとのいつもの送迎が、以前とは明らかに違うものになっていた。


会話も変わった。以前は俺が話題を探し、彼女がそれに答える形が多かったが、今は涼香さんの方から仕事の愚痴や、どうでもいい日常の出来事を話してくれるようになった。時折ふと立ち止まって、俺の顔を覗き込むようにして小さな声で質問を投げかけてくる。


「ねぇ、橋宮くんはさ、もし大切な人が苦しんでたら、どうする?」

そんな風にまるで俺に答えを求めているかのように、真剣な眼差しを向けてくるのだ。そのたび、俺は戸惑いながらも彼女の視線を受け止め、自分なりに言葉を探した。


「俺ならその人のために出来ることを全部しますかね...」

そう答えると涼香さんは、何も言わずに少しだけ顔を上げて、小さく微笑む。その笑顔はかつてのビジネスライクなものではなく親密さを含んだ、どこか頼りきったような表情に見えた。


俺の傘の下で、彼女の香水の香りが以前よりも強く、そして甘く香る。その香りは俺の心を刺激し、複雑な感情をさらに掻き立てた。彼女が苦しんでいるのは分かっている。そして俺にだけ、その弱さを見せている。その事実が俺の胸に重く、そして甘く響いた。


この距離感は一体何を意味するのだろう。彼女は本当に俺を「信頼できる後輩」としか見ていないのだろうか。それとも、あの夜の深い会話が二人の関係性を少しだけ、いや、大きく変えてしまったのだろうか。


雨の夜道、傘の下で密着する涼香さんの体温がじわじわと俺の心を溶かしていく。それは危険な甘さを含んだ誘惑のように感じられた。


その日の送迎も、涼香さんはいつになく俺の隣にぴったりと寄り添っていた。駅前のロータリーに差し掛かると涼香さんの彼氏の車が停車しているのが見えた。不思議と嫌な予感がして、ほんの少しだけ涼香さんと距離をとった。


涼香さんは俺に小さく「じゃあね」と告げ、早足で車へと向かっていった。彼女の背中を見送ると男が車から降りてきて涼香さんの肩に手を回し、そのまま車に乗り込んだ。スポーツカーはすぐにエンジンをかけ、夜の闇へと消えていく。


俺は再び一人、ロータリーに立ち尽くしていた。心臓が冷えていくのを感じながら、さっきまで彼女が隣にいた温もりを探す。呆然と立ち尽くす俺の目に、数メートル先に一台のタクシーが停車する。客を降ろしたばかりのそのタクシーが去っていくのをぼんやりと見送っていると突然、背後から荒々しい声が飛んできた。


「おいお前、ちょっと待て。」

振り返るとそこに立っていたのは、涼香さんの彼氏だった。車に戻ったはずの彼がなぜここに。男は憎悪に満ちた目で俺を睨みつけ迷うことなく真っ直ぐに俺の方へ向かってくる。


「お前、涼香に何吹き込んだ?」

男は俺の胸ぐらを掴み上げた。見ただけでも分かる隆々としたその手には尋常ではない力が込められていて、俺は息が詰まる。彼の目に宿る憎悪に俺は一瞬にして凍りついた。


「何のことですか…」

必死に冷静を装ってそう返したが、煮えたぎった男の怒りはそんなことでは収まらない。


「とぼけるんじゃねぇよ。涼香がお前なんかに相談するわけねえだろうが!お前みたいなもんが涼香に色目使ってんじゃねぇよ!」

そう叫びながら、男の拳が俺の顔面に振り下ろされた。鈍い音と共に痛みが頬を襲い、瞬く間に視界がぐらつく。


俺は反撃できなかった。涼香さんの彼氏だという事実と、彼が怒っている理由が図星を突かれているようで、俺には何も言い返せなかった。


男は俺の抵抗がないのを良いことに、一方的に殴り続けた。腹、顔、胸…次々と襲いかかる衝撃に、俺の体はあっという間に地面に崩れ落ちた。アスファルトの冷たさが全身に広がる。意識が遠のいていく中で俺の脳裏には、涼香さんが男に向けた、あのとろけるような笑顔がちらついていた。


「…っぐ、あぁ...」

アスファルトに突っ伏したまま、呻き声しか出すことができなかった。この痛みも、屈辱も、すべて、俺が勝手に抱いた淡い期待の報いなのだろうか。


どれくらいの時間が経ったのか、俺には分からなかった。ただ冷たい地面と、体中の痛みが現実だけを伝えてくる。遠くで男の車の音が聞こえるような、聞こえないような。ぼんやりとした意識の中でふと、頭上を遮る影を感じた。


「は、橋宮くん!?大丈夫!?」

声だけで気づいた。そこにいたのは店長だった。店長は俺の姿を見るなり、早足で駆け寄ってくれた。店長の焦った声が、少しだけ途切れていた意識を現実へと引き戻す。


店長は俺に肩を貸してずっしりとしながらBluewideに連れて帰ってくれた。閉店後の静まり返った店はいつもと違う空気をまとっていた。バックヤードの休憩室のソファに横たわると、店長は手早く応急処置の氷嚢を用意してくれたり、湿ったタオルで顔を拭いてくれたりした。


「一体何があったの?警察呼ぶ?」

店長の問いに俺は必死に首を横に振ることしかできなかった。こんな情けない姿を誰にも知られたくない。ましてや警察沙汰になどしたくなかった。


その時、店の入り口の方から音が聞こえた。視線を向けると、そこに立っていたのは涼香さんだった。朦朧とする意識の中でも俺はすぐに涼香さんだとわかった。彼女の顔色が青ざめていくのが見えた。きっと彼氏の車から降りて、俺の状況を確かめに戻ってきたのだろう。その時には、すでに俺が殴られている最中だったのかもしれない。


そして俺は、意識を手放した。次に目が覚めたのは翌朝、病院のベッドの上だった。体中が軋むように痛んだ。特に頬と腹は、殴られた場所が熱を持って腫れているのがわかった。


「……んぅ...」

思わず呻き声が漏れた。口の中は鉄の味がして、切れた唇の感触が気持ち悪かった。身を起こそうとするが、痛みで悲鳴を上げた全身の筋肉がそれを止めた。


枕元には店長が座っていた、腕を組みながら心配そうな険しい顔で俺を見下ろしていた。その顔には疲労が溜まっているようだった。


「あぁ...良かった。気が付いたんだ。」

店長の低い声が、ゆっくりと響いた。その声には安堵が混じっていたようだった。


「まだ寝てな。無理しないで。」

店長はそう言って、俺の額に冷たいタオルを乗せ直してくれた。ひんやりとした感触が、熱を持った皮膚に心地よい。


「昨日のこと…」

俺が口を開こうとすると、店長は静かに首を振った。

「今は話さなくていいよ。…涼香ちゃんには、俺から連絡しておいたから。」


その言葉に俺の心臓がどくりと跳ねた。涼香さんに俺のこの惨めな姿が伝わってしまったのか。彼女はこれを見てどう思うのだろう。心配するのか、それとも、厄介なことに巻き込まれたと呆れるのだろうか。あの「ビジネスライクな笑顔」が頭の中で無限に繰り返された。


店長は俺の顔をじっと見つめてから、小さくため息をついた。

「とにかく、少しの間出勤はいいから、しっかり休んでね。」


店長の言葉は優しかったが、俺の心は重かった。体中の痛みよりも、涼香さんに知られてしまったという事実が、俺の心を深くえぐった。


どれくらいそうしていただろうか。店長はやがて病室を出て、Bluewideに戻った。俺は痛みで再び意識が遠のきそうになりながら、それでも目を閉じられずにいた。


その時、病室の入口が開く音がした。足音がこちらに近づいて来る。やがてベッドの周りのカーテンがゆっくりと開いた。そこに居たのは涼香さんだった。


昨夜と同じ、いや、それ以上に憔悴しきった顔色。普段は完璧に整えられた髪は少し乱れ、その瞳は潤んでいる。彼女はゆっくりと、しかし確かな足取りで、俺のベッドのそばまでやってきてしゃがみ込んだ。


「橋宮くん...」

涼香さんの声は震えていた。俺の腫れた頬、切れた唇、そして痛々しいアザを目にした彼女の顔がさらに青ざめていく。俺はこんな姿を見られたくなくて、思わず顔を背けようとした。だが彼女はそれを許さなかった。


「まだ痛む…?」

涼香さんの手が、俺の頬にそっと触れた。ひんやりとしていて、しかし、それが妙に熱を持った俺の肌に心地よかった。その指先が、優しくアザの縁をなぞる。俺は痛みに身を捩りそうになったが、涼香さんの真剣な、それでいて痛みに耐えるような瞳に見つめられ、動けずにいた。


「ごめんね…本当に、ごめん…」

彼女の目から大粒の涙がこぼれ落ち、ベッドのシーツを濡らした。涼香さんがこんなにも感情を露わにするのを、俺は初めて見た。普段のクールな彼女からは想像もできないほどその顔は深い悲しみと自責の念に歪んでいた。


「俺は…大丈夫、です…」

辛うじてそう絞り出すのが精一杯だった。しかし、涼香さんは小さく首を振ると俺の手をぎゅっと握りしめた。その手は冷たく、そして震えていた。


「橋宮くんのせいじゃない。全部、私が…」

彼女の痛みが俺の心にも伝わってくる。彼女は自分のせいで俺が傷ついたと本気で思っているのだ。


俺はどうすることもできなかった。ただその小さく可憐な手を握り返すことしか。涼香さんの震えが、俺の掌から伝わってくる。そしてその震えはこれまでの彼女の苦悩の深さを物語っているようだった。

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