ずるいよ
涼香さんとあの男を乗せたスポーツカーが消え去った後も俺はその場に立ち尽くしていた。頭の中は涼香さんが男に向けたとろけるような笑顔と、俺に向けたビジネスライクな笑顔とが無限に繰り返される。
俺は呆然として怒りとも悲しみともつかない、枯れたため息をつくことしかできなかった。幸福感で満たされていたはずの心が、一瞬にして空っぽになった。信じていた「特別な時間」はただの幻想だった。その事実が胸をえぐる。
足元がおぼつかない。アスファルトの冷たさも、周囲の喧騒も、すべてが遠くぼんやりとして現実感がない。
翌日からの勤務は、俺にとっては、もはや苦痛以外の何物でもないなかった。店の賑やかな喧騒も、フロアを照らす煌びやかな照明も、すべてが遠く、膜がかかったようにぼんやりと見える。状況は何も変わっていないはずなのに。
グラスを拭く手は何度も滑りそうになり、オーダーを復唱する声もどこか宙を漂っているようだった。
「橋宮くん、大丈夫?」
仕事中は私語をすることの無い店長にも思わず心配されたが、俺は曖昧な笑みを返すことしか出来なかった。自分が今どんな顔をしているのか、まるで他人事のように感じられた。
店内で涼香さんの姿を見つけるたびに、今までとは違う感覚で心臓が凍りつく。しかし彼女はいつものようにクールで、プロフェッショナルな笑顔を客に向けている。昨日まで俺に向けられていたはずのあの「ビジネスライクな笑顔」だ。
その笑顔を見るたびに俺の胸は言いようのない痛みに締め付けられた。まるで自分がひどく馬鹿な人間だったと、目の前で嘲笑されているかのような気分だった。
その日からの送迎も、俺の心は今までのように躍ることは無かった。楽しく会話をしているつもりだが、あの笑顔が見える度にどこか上の空のように何も考えられなくなってしまった。すると、とある拍子に涼香さんが俺の様子を伺うように少し前に立って顔を覗いてきた。
「涼香さん…?どうかしました...?」
沈むような低い声でそう尋ねると涼香さんはなんだかムッとしたような顔でこちらを見てこう言った。
「なんか橋宮くん、元気ない。」
心配そうで優しいその声色でボソッと言い放った。俺は図星を突かれ、必死に嘘の言葉をつぐむとムッとしたような顔は一気に心配の顔に変わった。
「...大丈夫?...仕事のこととか?私でよければ話聞くよ。」この上なく優しい口調で涼香さんはそう言ってくれた。きっとこの言葉に、嘘偽りはない。そう思いたいのに、今はその思考をあのとろけるような笑顔が全て崩していく。
俺は遠慮がちに「心配しないでください」と口にした。それが俺にできる最大限の涼香さんへの思いやりだった。
駅に着くと涼香さんはまたタクシー乗り場に向かって歩いた。タクシーに乗り込むその瞬間、俺の方を振り向いてきた。何かと思ったその時、涼香さんは背伸びをして腕を上に伸ばし、俺の頭をくしゃりと撫でた。
困惑している俺に涼香さんはとびきりの笑顔を見せて笑った。
「橋宮くん頑張ってるよ。だからそんなに沈んだ顔しないで。お疲れ様。」
そう言うと涼香さんはタクシーに乗り込み、窓越しに手を振るとタクシーは暗闇に消えていった。
突然の出来事に色々な感情が混ざって、気がつくと謎の涙を流していた。好きな人に頭を撫でられ褒めてもらったことへの嬉しさと、好意を抱く相手にしかしないような行為を、恋人のいる彼女がなぜ俺にしたのか。そのモヤモヤが、俺の頭の中で駆け巡っていた。
「………ずるいよ。」
気がつくと俺は思わずそう呟いていた。
数週間が過ぎ、俺の心は乾いた砂漠のようだった。感情はほとんど動かず、ただ日々の業務を機械的にこなすだけ。そんなある日、閉店間際のことだった。
「橋宮くん、ちょっといい?」
背後から聞こえた声に、俺の体はびくりと震えた。振り向くと、そこに立っていたのは涼香さんだった。いつものクールな表情は影を潜め、どこか不安げな面持ちをしている。
「あ、はい。どうしました...?」
動揺しているのが伝わりそうな声で思わずそう言った。相談に乗ることを了承したのを聞いた涼香さんは少しホッとしたような表情で話し始めた。
「相談したいことがあるの。」
その言葉は、俺の凍り付いた心を微かに揺さぶった気がした。俺の感情が、再び動き出す予兆のように思った。
スタッフルームに行くと、いつものソファに向かい合わせで座った。従業員はみんな帰り、沈黙が続く部屋には2人の呼吸をする音が静かに鳴り響いていた。その沈黙を突き破るように、彼女は寂しげな声で切り出した。
「実はさ、彼氏と本当にうまくいってないんだよね。なんか、モラハラっていうやつ?なのかな。すぐに怒鳴られてさ。」彼女の瞳は潤み、俺は視線を逸らすことができなかった。
「でも家まで車出してくれてたりとかで感謝しなきゃいけないことばっかだし、年上ってのもあるかもしれないけど、うまく話し合えないんだよね。」
いつもクールで活発なその声は、弱々しく途切れそうな声に変わっていた。きっと相当思い詰めているのだろう。そう思った。
「ちょっと、どうしたらいいか分からなくてさ。話す人もいなくて、橋宮くんしか話せる相手がいなかったんだ、ごめんね。」
その言葉に、俺の胸は締め付けられた。彼女の苦しみが痛いほど伝わってくる。同時に「橋宮くんしかいない」という言葉が俺の心を密かに揺さぶる。あの男ではなく、俺が。
「謝らないでください。俺ならいつでも話聞くんで。」邪な思いなど一切なく、自らの気持ちを押し切って、涼香さんにそう言った。
そう言うと涼香さんは涙目ながらそっと微笑んで、俺の隣に席を移った。
「ありがと。うーん、やっぱりもうしんどいから別れた方がいいのかなぁ、」
涼香さんはそう言って俯いた。その姿はこれまで俺が知っていたどの涼香さんよりも人間らしく、そして脆かった。俺は彼女の唯一の話し相手として、ただ黙って耳を傾け、彼女の感情を受け止めることに徹した。
「自分のこと犠牲にしてまで、相手に寄り添うなら楽になれる方を選んだほうがいいですよ。」
俺は自分の言葉が彼女にとっての小さな光になればと願った。
「そっか。じゃあそういう方向でまた彼と話し合ってみるね。ありがと。」
スタッフルームでの深い会話から数日後。涼香さんとのいつもの送迎が、以前とは明らかに違うものになっていた。
以前は俺が差し出す傘に彼女が少し遠慮がちに身を寄せるといった距離感だった。だが、この数日涼香さんはまるでそれが当然であるかのように俺の傘の下に、より深く、より自然に身体を寄せてくるようになった。
肩が触れ合うのはもちろん、腕や、時には腰のあたりまで彼女の温もりを肌で感じる。その度彼女はこちらに目を合わせてきて、なんだか恥じらうように視線を逸らした。一歩歩くごとに微かにぶつかり合うその感触が俺の心臓を不規則に揺さぶった。