なんか落ち着く
涼香さんを乗せたタクシーが暗闇に消えていくのを俺は雨の中、じっと見送っていた。腕に残るビニール傘に雨が当たる感触、肌に残る香水の微かな残り香、そして耳元で囁かれた涼香さんの「ありがとう」。それらすべてがまるで魔法のように俺の脳裏に焼き付いていた。
いつもクールでな涼香さんが雨に困り俺に「お願い」をしてきたこと。傘の下で肩が触れ合うほどの距離で、人間らしい愚痴をこぼし感謝を伝えてくれたこと。その一挙手一投足が俺の心を大きく揺さぶり、涼香さんへの想いを止めどなく加速させていた。
家路に着く時も、俺の心は浮き足立っていた。涼香さんの隣にいた数十分の出来事が普段の数時間よりも濃密に感じられ、その余韻に浸っていたいと強く願った。彼女を駅まで送った。ささやかながらその事実がたまらなく嬉しかった。
あの夜の送迎は一度きりの特別な出来事では終わらなかった。数日後、同じような雨の夜あるいは涼香さんが終電を逃しそうな時俺は迷わず声をかけるようになった。最初は「悪いから」と少し遠慮がちにしていた涼香さんも俺が傘を差し出しじっと彼女の返事を待つ姿にやがて当たり前のように俺の申し出を受け入れるようになっていった。
雨の日も、風の強い日も、あるいはただ単に終電を逃しただけの夜も、俺は閉店後に涼香さんの姿を探すようになった。そして彼女が小さく頷き俺の傘の下に入るたび、俺の胸は静かな喜びに満たされた。
最初はぎこちなかった会話も送迎を重ねるごとに自然になっていった。店の照明の下では見せない素の表情。仕事の愚痴をこぼしたり、フロアでは決して見せないような疲れた顔を見せたりする涼香さんは、俺にとって毎日が新しい発見の連続だった。
俺が他愛のない質問を投げかけると彼女も少しずつプロの仮面の下の素顔を見せてくれるようになった。家では映画を観たり、漫画を読んだり、意外にも静かでインドアな趣味が多いと知った。ある時は、ふと「昔はもっとアクティブだったんだけどね」と遠い目をしながら過去を懐かしむような乾いたような笑みを浮かべることもあった。
そんな彼女の言葉の端々に俺は一人の人間としての涼香さんを感じより深く彼女に惹きつけられていった。
ある時二人で傘を差して歩く道中、涼香さんが僅かな段差でバランスを崩しそうになった。俺は思わず反射的に倒れかけた彼女の腕を掴み支えた。
その時に触れた彼女の腕の柔らかさや、視線を上げた涼香さんの困ったような、安堵ともとれるその表情に俺の心は激しく波打った。触れるか触れないかの距離で歩く夜道は、時に俺の心を締め付けるほどに甘く、永遠にこの幸福が続けばと願うほどに愛おしかった。
涼香さんは俺の話に静かに耳を傾けてくれて、時折
「へえ」「そうなんだ」と優しく相槌を打ってくれる。その相槌一つ一つに俺が涼香さんに受け入れられているような温かい感覚を覚えた。まるで二人だけの秘密を共有しているような特別な時間がそこには流れていた。
俺の心を強く掴んだのは、彼女が自分の夢について少しだけ語ってくれた夜だった。
「あたしさぁ、いつか自分で小さくてもいいからさ店やってみたいんだよね。昼間はカフェで、夜はしっとりしたバー…みたいな?」
普段のクールで隙のない涼香さんからは想像もできない柔らかな表情だった。目を輝かせながら語る彼女の夢はC町の夜景にも負けないくらい輝いて見えた。この人の夢を俺も見ていたい。いや、できればその夢を追いかける彼女を傍で支えたい。俺の未来に涼香さんの存在があることを考えると、その情景はあまりにも美しくて、何にも変え難いのだろうと、ふと思った。
涼香さんも俺の真面目さや、彼女への細やかな気遣いに安心感を覚えてくれているようだった。ある夜、ふと「橋宮くんと話してるとさぁ、なんか落ち着く。」と、彼女が小さく呟いた時俺の心臓は飛び跳ねるほど高鳴った。彼女にとって俺は「信頼できる後輩」として特別な存在になり始めている。そう俺は信じて疑わなかった。
この関係がいつか恋愛禁止のルールを乗り越える日が来るかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら俺は毎日を過ごしていた。この数週間で俺の人生は涼香さんの存在によって色鮮やかに変わった。ぼんやりと生きてきた俺の人生で初めての心底からの幸福だった。
そんな満たされたような日々が続いていたある夜のことだった。
その日はいつものように終業時間を少し過ぎた頃、涼香さんを駅まで送るため店の外へ出た。C町の夜は相変わらず煌びやかな光に満ちていたが、この頃の俺にはその光の一つ一つがどこか希望に満ちて見えた。
駅前のロータリーに出ると見慣れない真新しいスポーツカーが、ハザードランプを点けて停車しているのが目に入った。流線型のボディとオーラが漂うような黒いボディはいかにも高価そうで、この街ではよく見かけるタイプではあったがなぜか俺の視線はその車に吸い寄せられた。
その車のドアが開きスラリとした男が降りてくる。スーツ姿ではないしかし質の良いシャツに身を包んだその男は、TOKIOの長瀬智也のようにキリッとした顔立ちをしていた。男は迷うことなく真っ直ぐに俺たちのほうへと歩いてきた。
そして俺の隣を歩いていた涼香さんの肩にごく自然に腕を回した。まるで何百回、何千回と繰り返された日常の一コマであるかのように。あまりにも当然の見慣れたようなその仕草に俺の思考は一瞬停止した。
「随分遅かったな。」
男は涼香さんの頭を軽く撫でながら甘えたような、しかしどこか見慣れた声でそう言った。涼香さんは驚いたように目を見開いた俺をちらりと一瞥すると、すぐにその男に今まで俺が見たことのないようなとろけるような笑顔を向けた。
「ごめんね、待った?」
涼香さんの声はいつもの店でのプロの笑顔よりも、そして傘の下で俺に聞かせてくれた素顔の声よりも、ずっと甘く、ずっと柔らかかった。恋人にしか向けられない、親密で愛情に満ちた響きがあった。
俺の心臓は、突然冷たい氷で締め付けられたかのように凍りつき、全身の血の気が引いていくのを感じた。幸福感で満たされていたはずの心が、一瞬で奈落の底へと突き落とされた。あれだけ目を差していた煌びやかな光の色はじわじわとモノクロに変わっていくようだった。
男は涼香さんの髪を優しく撫でながら、俺の方をちらりと見た。その目に、敵意や探るような色はない。ただ、涼香さんの隣にいる見知らぬボーイに対して、当たり前のように向けられる「何者だ?」という単純な好奇の色だけがあった。
その視線が俺の胸に突き刺さる。俺はその男にとって、涼香さんの「信頼できる後輩」ですらなく、ただの通行人あるいは店の従業員の一人でしかないのだと残酷なまでに突きつけられた気がした。
「橋宮くん、今日はありがとうね。気をつけて。」
涼香さんは俺にいつものビジネスライクな笑顔を向けた。それは、数日前まで俺が「特別な笑顔」だと信じていた、あの笑顔だった。だがもうその笑顔に俺の心は温かさを感じなかった。ただ薄っぺらい仮面にしか見えなかった。彼女はその男と共に車に乗り込み、エンジン音と共に夜の闇へと消えていった。
あっという間の出来事だった。まるで夢でも見ていたかのように。しかし目の前で俺の知らない涼香さんが、確かに存在していた。そして、その隣には俺ではない「誰か」が当たり前のように立っていた。
傘を持つ手には気づけば力が入らず、転がり落ちた傘と棒立ちになった俺の体に、C町の凍えるような夜風が打ち付けた。
涼香さんが俺に見せていた「素顔」も「落ち着く」という言葉も、傘の下で交わした夢の話も、すべては「後輩」に向けられた彼女なりの優しさでしかなかったのだろうか。いや、きっとそうなのだろう。俺だけが勝手に期待し、舞い上がっていただけなのだ。
その瞬間色々なことを考えて胸が跳ね上がっていたことが小っ恥ずかしくなった。
「恋人……いたのか……」
喉の奥から乾いた砂を絞り出すように、その言葉が漏れた。それは絶望と、裏切りにも似た苦痛が混じり合った低く潰れた声だった。
俺の中で育まれ確かなものだと信じていた幸福がまるでガラス細工のように、粉々に砕け散っていくのを感じた。心臓の真ん中を鋭い刃物でえぐられたような痛みにその場に膝から崩れ落ちそうになった。