お願い
あの夜、涼香さんに送迎を断られ一人でC町の駅へと向かう道すがらも、俺の右手甲には保冷剤のひんやりとした感触が残っていた。それはまるで涼香さんの柔らかな手の温もりと、言葉にならない優しさの余韻のようだった。
客とのトラブル。怒りに震えながらも、涼香さんを庇えたことへのわずかな達成感と、彼女がくれた感謝の視線。その全てが俺の胸に残り、あの日ささやかに自覚してしまった「守りたい」という衝動はもう止めようがなかった。
恋愛禁止のルールは、しっかりと頭で理解していた。それなのに涼香さんへの募る想いがいつまで経っても頭の中で激しくぶつかり合っていて、この気持ちにどう蓋をすればいいのか。この夜も答えを見つけられずに重い足取りで家路につくのだった。
翌日からの数日間、俺はただがむしゃらに仕事に打ち込んだ。幸いなことに、体は急速にBLUEwideでの動きに慣れていった。グラスを片付けるタイミングも、オーダーを捌く速さも、日を追うごとにスムーズになっていく。
萬田くんからは「橋宮さん、動き良くなりましたね」なんて、少しからかうような口調で言われることもあった。彼がテキパキと仕事をこなす姿や、担当の天音さんと楽しそうに話している様子を横目で見ながら、この店の「プロ」としての距離感を学んでいった。
だが、仕事に慣れて余裕ができた分、俺の視線はより頻繁に涼香さんへと向けられるようになった。それはもはや、初日のような緊張や戸惑いからの好奇心ではない。彼女の素の部分を少しばかり知ったこともあって、仕事も彼女を意識して動いてしまっている。
他の客と話す時は自然な笑顔を見せるのに、俺と目が合うとすぐに視線を逸らしたり業務的な表情に戻る涼香さん。その度に俺の胸には言いようのない寂しさが募った。同時に時折見せる他の嬢にはない、ふとした瞬間の憂いや疲労の影を見つけると涼香さんは何を思っているんだろうという想いは、さらに募っていくばかりだった。
そんな日々の中で、俺の仕事ぶりは少しずつ店長や他のボーイからも認められ始めていた。仕事中のちょっとした励ましのと言葉は俺にとって大きな自信になった。涼香さんともグラスを下げに行くタイミングやドリンクを置く場所で無言のアイコンタクトが取れるようになっていた。まるでプロ同士の阿吽の呼吸。そのわずかな連携が俺にとっては特別だった。
そんなある日のこと。フロアの奥で客が泥酔してテーブルに突っ伏しグラスをひっくり返してしまった。近くにいた嬢が対応に困っているのが見て取れた。俺は反射的に駆けつけて慣れた手つきでグラスの破片を片付け酔った客を他のボーイと協力して席に座らせた。
以前の俺ならきっと戸惑っていたであろう大惨事。冷静に対応し終え、ふと涼香さんの卓の方を見ると彼女がグラスを置くふりをして俺の横を通り過ぎた。
「……橋宮くんありがとう。助かった。」
耳元で誰にも聞こえないような小さな声が囁かれた。耳に触れた吐息とその優しい声が、俺の耳を真っ赤にさせるのを感じた。
グラスを置いた涼香さんの指先が一瞬だけ、俺の手の甲に触れたような気がした。わずかな接触。だがその瞬間、俺の心臓は激しい運動をした後のように跳ね上がった。
割れたグラスの始末と残っている仕事があるというのに時計の針は既に終業時間を指していた。仕事を横目に萬田くんと天音さんが帰るのを見ていた。涼香さんに仕事が長引いたことを詫びようと、そそくさと残りの仕事を終わらせた。
「涼香さんすみません、今終わりました。」
「お疲れ様。随分かかったね。」
待たせたというのに涼香さんはニコニコとしながら俺に話してくれた。
準備を整えて店を出ようとすると、真っ黒な雲に覆われた空がバケツをひっくり返したような土砂降りの雨が降り出した。
涼香さんも珍しく困惑した表情で暗雲の立ち込める空を眺めていた。
「あの、俺傘あるんで駅まで送りましょうか…?」
けれどきっと断られると思いつつ涼香さんに声をかけた。涼香さんは俺と目を合わせると、携帯を少し触ってから少し悩んでいた。
謎の緊張感に苛まれてると涼香さんは俺のそばで小さく呟いた。
「………お願い。」
思わず胸が高鳴るのを感じたのと同時にビニール傘の留め具を外してバサッと空に向けて開いた。依然として降り続く大粒の雨の音が傘から伝わってきた。傘を開くと涼香さんが傘下に入ってきた。
店とは違う二人だけのゆっくりとした時間が流れ始めた。最初は当たり障りのない話ばかりだったが、やがて涼香さんがふと今日の客とのトラブルについて口にした。
普段は決して見せないようなほんの少しの愚痴。そして「ああいう時橋宮くんがいてくれてほんと助かった。」と小さく微笑んだ。傘の狭い空間で顔が近づく度に彼女のクールな仮面が少しだけ剥がれたような気がした。
「あ、橋宮くん肩濡れちゃってるよ。」ふとこちらを向いた涼香さんが気にかけてくれた。
「いや、俺は平気っすよ。涼香さん濡れたらまずいですし。」
と話してる途中に涼香さんは俺の近くに身を寄せてきた。たった数センチの距離だったが近づいた時の香水の匂いに思わず顔が熱くなるのを感じた。
駅に着き、停留していたタクシーに涼香さんが乗り込んだ。たった一時であったが二人で帰路を辿ったことへの満足感はただならぬものだった。
涼香さんは少し窓を開けて、雨の音に掻き消されそうな声で「ありがとう、気をつけてね。」と告げると、タクシーは暗闇に消えていった。