家まで送らせてください
目が覚めると時計は14時を指していた。慣れない時間に体を動かした故によく寝てしまったのだろう。
朦朧とした意識の中食事の準備を始めた。昨日の帰りに買ったコンビニのカレーパンと飲むゼリーを胃に流し込む。上京してから毎日こんな食事ばかりだ。一人暮らし故の食事の乱雑さに心が虚しくなるのを感じる。
玄関のドアを開くと甲高い小学生の笑い声に昼過ぎ頃の日差しが刺さって来た。夜の世界から一変したその情景は疲れた体にじんわりと染み渡り心地が良かった。
前日のような底知れない緊張感は既に無く、身体を包むスーツの窮屈さにも、少しばかり慣れてきた気がする。電車に揺られてC町に到着した。気持ち閑散気味な繁華街を歩いて、BLUEwideの階段をカツカツと登った。
重厚な扉を開く瞬間は、やはり微かに胸が高鳴った。あの煌びやかな空間に昨日の自分が確かに存在したという実感が、俺の心を奇妙に満たしていた。
店長と目が合うとすぐに声がかかった。
「あぁ、橋宮くんおはよう。急だけどこれ買ってきてもらっていいかな?」
店長から手渡された小さなメモには足りない備品が書かれていた。俺は小さく頷き、慌ただしく店を出た。
指示されたものを手早く近所のスーパーで買い揃え、そそくさと店へと戻った。スタッフルームの扉を開けた時思わず息を飲んだ。
蛍光灯の光に照らされる部屋。隅に置かれたソファには涼香さんが座っていた。昨日とは違うシックな紺色のドレスが、彼女の白い肌によく映えていた。
「あ、涼香さん…お疲れ様です。」
思わず口から出た声は、予想以上に上ずっていた。
涼香さんはゆっくりと前髪を直しながら顔を上げて俺に目を合わせた。その視線に俺の心臓がドクンと高鳴るのがわかった。
「お疲れ様。」
涼香さんは一言そう言うと目線をスマホに落とした。備品を置いてから開店まで待機であったため、涼香さんと二人でスタッフルームに居ることになった。
けれど何と話しかけていいのか分からず、ただ立ったまま動けなくなる。何か気の利いた言葉を、何か気の利いた行動を、と頭の中で必死に考えるものの、空っぽの思考は何も生み出さない。たった数秒の沈黙が、永遠のように感じられた。
やがて開店時間となり、気持ちを改めるように持ち場へとついた。二日目ながら昨日に比べていい動きが出来ている気がする。席へ客を案内する動きやボトルを運ぶ手も、昨日までブルブルしていたものとは訳が違うほどになっていた。萬田くんからの助言も受けながら灰皿やグラスを片すタイミングも上手く掴めてきたように思う。
しかし意識の大部分がどうしても涼香さんに向けられていた。彼女が纏う、昨日と変わらぬ涼やかな雰囲気。客との流れるような会話。そして、どんな状況でも決して崩れない、完璧な笑顔。その全てが目に焼き付いて離れなかった。
仕事に集中しなくてはと気持ちを切り替え、俺はトイレ掃除を始めた。だが、心の中では涼香さんに対する感情が物議を醸していた。
ルールで禁止されていると知りながらも自ら惹かれていく醜悪な自分と、純粋に彼女を想う気持ちが、永遠に喧嘩し合っているようだった。俺は便器に体を預けながら、深く息を吐き出した。結局、この混乱した感情に蓋をするように、まずはルールをしっかり守って仕事に徹しようと考えることにした。
掃除から戻ると、涼香さんが座っている卓の食器などを片付けるのに良いタイミングだと見受けられた。会話を邪魔しないよう、卓の上を丁寧に回収していく。仕事中に遠くから眺める時には感じられない、涼香さんが纏っている香水の香りが、記憶を呼び覚ますように鼻腔をくすぐった。
あれだけトイレで冷静になろうと反省していたのに、心臓が激しく脈打っている。自分の単純さに呆れていたら、右手の甲に突然の熱さを感じた。思わず「熱っっ!」と声を出してしまった。
何事かと右手を見ると、会話に夢中でよそ見をしていた客のタバコが、まるで根性焼きのように手の甲に当たっていた。
「…チッ、なんだお前。会話冷ますんじゃねぇよ!俺に何恥かかせてくれてんだよ!」
酒に酔って気性の荒い客が、喧嘩腰にそう言い放った。入って間もない俺は、どう対応すべきか分からず、ただ謝罪を繰り返すしかなかった。涼香さんに情けない姿を見せてしまったという思いもよぎったが、そんな呑気なことを考える暇などなかった。
店長が慌ててこちらに駆けつけ、何とかその場は穏便に収まった。そのまま終業時間となったことが、その日の何よりの救いだった。二日目にして初めて客に怒号を飛ばされたことがショックで、店長にも少し心配された。
呆然としながらスタッフルームで着替えていると、肩をポンポンと叩かれた。振り返ると、そこに涼香さんが立っていた。「あぁ、涼香さん…どうしましたか?」ショックと、突然間近に現れた彼女に、驚きで体が固まる。「ちょっと来て」と、短く言われた。
俺は即座に、今日の卓の片付け方に何か言われるのだろうと覚悟した。やはり、かっこ悪い所を見せてしまったのだと、今更ながら恥ずかしさが込み上げてくる。涼香さんに先導され、フロアの席に座るよう促された。
「ちょっと待っててね」と、涼香さんが奥の部屋に小走りで向かって行った。怒られるのかなと思うと、先ほどまで胸を高鳴らせていたこの店の雰囲気が、一気に自分を強く押し潰すような重圧となって感じられた。
やがて、涼香さんが戻って来た。俺は怒られる覚悟を決めていた。だが、涼香さんは俺の隣に腰を下ろした。予期せぬ行動と、これまでにない接近に、頭の中の回路が落ち着きを手放し、混乱した。
すると涼香さんが突然、俺の右手を掴んできた。突然のことに、ただでさえ落ち着きのない頭の暴走が加速する。何事かと見やると、右手の甲にひんやりと保冷剤が当てられていた。
突拍子もない冷たさと涼香さんの行動に、俺は思わず「え?」と声が漏れた。
「さっきは熱かったでしょ。橋宮くん、それから謝るばかりで冷やしてなかったから、ちょっと心配だったんだ」「あ、ありがとうございます」
火傷した右手が、涼香さんが保冷剤を抑える反対の手に触れていた。俺よりも一回り小さいその手は柔らかく、程よい温かみがあった。心臓の鼓動は激しい運動をした後のように早く、冷静な判断などできる状態ではなかった。
「あのお客さんね、いっつも指名してくれるんだけど、なんか酒癖も他も色々荒いから苦手なんだよね。私の方からだけど、ごめんね?」
「いや、涼香さんが謝ることないっすよ。俺も、こういうことにならないように頑張らないとっすね」
何とかまともに会話を交わしているうちに、先ほどのショックや動揺は、強風で吹き飛んだ砂のように俺の脳内から消え去っていた。
「本当にありがとうございます。もう手も大丈夫なんで」鼓動に耐えきれず、俺はそう切り出した。
「そっか。なら良かった。じゃあ、帰ろっか」
その言葉を聞いてから、俺は送迎のことを思い出した。「あ、あの…今日は色々助けてもらっちゃったんで、家まで送らせてください」
咄嗟にその言葉が出たことに、我ながら少し驚いた。
「はははっ。ありがとう。でも、大丈夫。慣れないうちは早く帰って休みな」
昨日に比べれば優しく断られたが、やはり少し悲しかった。店から外に出るほんの数メートルの短い距離を共に歩いた。保冷剤のひんやりとした感触が右手に残っていて、それが涼香さんの優しさの余韻のように感じられた。
あの喧騒が嘘のように静まり返った夜の街に、彼女の香水の匂いがまだ微かに漂っているように感じた。
涼香さんは帰路に立った時、携帯を手にして電話をかける素振りをしていたようだった。
長いようで短い二度目の出勤はこうして終わった。右手はひんやりと冷たかった。