んーん、全然。
「じゃあそういうことだから、とりあえず仕事入ってもらおうか。」
その店長の言葉を皮切りに俺と涼香さんは仕事に入る準備をした。
店内には仕事を終えたサラリーマン達がゾロゾロと入ってくる。店内BGMが鮮明に聞こえるほどだった店内はいつの間にか様々な話し声が飛び交うようになっていた。
思っていたよりも仕事は絶え間なく動くこととなり、ドリンクの注文を受けて裏の冷蔵庫まで往復する動きは何度しただろうか。
先程まで気だるそうにタバコを吸っていた天音さんも男性客と楽しそうに会話していて、甲高い笑い声がしきりに聞こえてきた。
スタッフルームで気の抜けた顔をしていた萬田くんも人が変わったようにテキパキと注文を捌いていた。それなのに初日の俺に優しく仕事を教えてくれた。きっと彼はできる奴だ。
小一時間ほど経った時、一旦ピークが静まった。この時間にこんな体を動かすことも無い俺はどっと疲れが込み上げて来た。
隅の方で軽く休んでいると萬田くんもちょうど小休憩に来た。
「いやぁ初日からえげつないですね。週末のピークはもっとですからね。」
「えぇ、そうなんだ。俺もうクタクタだよ…」
俺の疲労ぶりに萬田くんがケタケタと笑いながら小休憩に談笑をした。
「ところでさ、萬田くんって誰の担当なの?」
「あぁ、僕は天音さんっすよ。働き始めてからずっと変わらず。」
「天音さんってずっとあんな感じなの?」
「え?うーんまぁ誰かと居る時はあんな感じすね。一人の時はなんかぼーっとしてますけど。」
萬田くんは伏し目がちにそう言って特に会話を広げることもなかった。
少し離れた席を見ると涼香さんが客と話している姿が見えた。浅葱色のドレスを身にまとい、髪をセットした姿は先程よりも違う魅力で溢れていた。その光景を見ていると涼香さんと目が合った。不意をつかれたような美貌の破壊力に鼓動が留まることを知らなかった。
言葉を失うように見蕩れていて、客が注文で呼んでいることに気付かなかった。ハッとして仕事を再開していたらあっという間に就業時間の1時を回っていた。
「いやぁ〜お疲れ様。初日から随分キツかったねぇ〜。床の清掃終わったら涼香ちゃん送ってあげてね。」
「はい、分かりました。今日はお疲れ様でした。」
店長にそう言って掃除を終え、涼香さんの元へ向かい身支度をしていたら涼香さんが話しかけてきた。
「あのさ、橋宮くん…だっけ?あたし家送ってくれなくていいから。面倒でしょ?」
「え、いやでも店のルールじゃ…」
「いや、いいよ。ただでさえ疲れてるでしょ?店長にバレるとめんどいから店の外まで来てくれたらそのまま帰ってくれていいから。」
そんな気にしなくていいっすよ。と言おうとしたがそんな間もなく涼香さんにそのまま飲まれてしまった。
「あ、そうですか…分かりました。」
「んじゃ、着替えたらエントランス来て。」
涼香さんが更衣室に向かう背中を眺めて、身支度の続きに移った。いや、一緒に帰りたかったとかそういうのじゃない。という思いをどこか否定しようとしている気持ちがあった。
(いやいや…帰れたとてルールもあるもんな…)
邪な気持ちを軽く振り払ってパパっと着替えた。
エントランスに行くと涼香さんが待っていた。さっきのドレスとは違い柔らかなシャツにゆるりとしたズボン姿でよく似合っていた。
「ごめんなさい、お待たせしました。」
「んーん、全然。」
なんだかデートの待ち合わせみたいだと馬鹿なことを考えていると店長が来た。
「あら、準備出来たか。2人とも今日はお疲れ様。橋宮くんも明日からよろしくね。涼香ちゃんは遅刻気をつけてよ?」
「はーい、気をつけます。」
「じゃあお疲れ様。気をつけて帰ってね。」
「はい。お疲れ様でした。」
俺は先を行って出入口の扉を開けて涼香さんが出るのを待っていた。
「別にそんな気使ってくれなくてもいいのに」
涼香さんがクスクスと笑ってくれた。
行きは緊張で登るのに苦労した階段を美女と一緒に降りている。その事実に少し心が躍った感覚がした。
沈黙が続いているのを破ったのは涼香さんだった。
「橋宮くんっていくつだっけ。」
「21です。再来月に22になります。」
「え、あたしの弟と一緒だ。」「え!ほんとですか。」
「うん、その歳なら沢山遊んどきなよ?」
「はは、分かりました。」
「じゃあ、気をつけてね。明日からもよろしくね。」
「はい!涼香さんもお気をつけて。」
帰路へと向かう涼香さんの後ろ姿を人混みで見えなくなるまで気づいたら見つめていた。