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そろそろ帰るね

毛布を手にソファに横たわると、泥のようにあっさりと眠りについた。目を瞑ると、さっきの涼香さんのカラッとした笑顔を思い出した。今まで見たことのない悪戯なその笑顔が、脳に焼き付いて離れなかった。


目を覚ますと、朝の9時半を過ぎていた。ガサガサと、普段家で聞くことのない音で目が覚めた。視界がまだはっきりしない目を擦り、体を起こすと涼香さんの姿が見えた。キッチンで何かしているようだった。後ろ姿を見つめていると優しい顔で彼女が振り返った。


「おはよ。よく寝てたね。」涼香さんはコップを2つ持ってこちらに持ってきた。ローテーブルにコトコトと、コーヒーの入ったコップを優しく置いた。いつも家で使っている、何の変哲もないコップとコーヒーのはずなのに、そんなのとは比べ物にもならないようなほど特別に見えた。


「おはようございます。すみません家主なのに。」

「全然。こちらこそ色々お世話になったしさ、これぐらいはさせて。」カップを持った彼女が昨夜のように隣に座り込んだ。両手でコップを包み込むように持ってちびちびとコーヒーを飲んでいた。


「ほんと昨日迷惑かけちゃったからさ、お詫びって言っていいのか分かんないけど洗濯物畳んでおいたよ。」

ふと目線を落とすと、綺麗に畳まれたスーツとネクタイがソファの端にポツンと置いてあった。


「ごめんね、勝手に色々やっちゃって。」「いえ、全然。助かります。普段こんな綺麗に畳まないんで。」涼香さんはこちらに目を合わせてクスクスと笑って、またコーヒーを口にした。下着をその後どうしたかについては、口が裂けても聞けなかった。


コーヒーを飲み終えると、彼女は身支度を進めて帰る準備をし始めた。洗面所で洗った顔を拭いていた俺の隣に来ると彼女は、歯ブラシを水で濡らしてチューブから歯磨き粉を出した。「あれ、歯ブラシ持ってたんですね。」「うん、よく他人の家泊まったりするから持ってるんだよね。」


歯ブラシを咥えたせいでままならない発音になりながらそう言った。顔をタオルで拭き終わり、ふと鏡を見ると2人がちょうど収まるように映っていた。その様子を見てこの景色が幻でないことを改めて理解した。


ソファに放置した毛布を畳んでいると、洗面所から彼女が寝室に戻ってきた。しゃがみこんで鞄に荷物をしまっている彼女の背中が、遠のいていく気がしてなんだか切なく感じた。


キッチンでコップを洗っていると、着替えた彼女が寝室から出てきた。「そろそろ帰るね。」手についた水滴を払って玄関まで彼女の後ろをついて行った。瑠璃色のハイヒールを履くと彼女はくるりとこちらを向いた。


「ほんといろいろありがとね。じゃ、また職場でね。」「はい、なんかあったらまた言ってください。」コクリと彼女が頷くとドアを開けて家を後にした。


ドアが閉まってから、俺はようやく力が抜けた気がした。涼香さんが寝室を使っていたこともあって、昨日の服で寝てしまっていたが、気絶するように布団に倒れ込んだ。腹が減っているのに、コーヒーを飲んだというのに、気が付けば瞼は重みを増し、静かに眠りへと誘われた。


陽射しが部屋に入り込むと、眠りから目を覚ました。ぼやけた視界が時計を確認すると、12時を過ぎていた。想像よりも長く寝ていたが、身体の疲れはあまり取れなかった。それに、数時間前まで涼香さんがいた事も実感がなくなり始めていた。


起き上がると、腹が唸りを上げるように鳴った。退院後でまともに食事をしていなかったのをすっかり忘れていた。入院してから家に帰ることが無かったから、冷蔵庫の食料は全て期限が大幅に過ぎていた。頭を掻きむしって、重い足を動かして外に出る準備をした。


顔をザッと洗い、部屋の隅に置いたTシャツに着替えると適度についた寝癖を隠すようにキャップを被った。歯を磨いてふと鏡の自分と目が合うと、今朝の涼香さんと映っていた鏡の景色を思い出した。その瞬間思わずニヤついて、口元が緩くなって唾液が零れ落ちそうになった。


外はじんわりと暖かかった。夏の始まりに差し掛かったように少し重くてのしかかるような熱気が身体に纏わりついた。大きく欠伸をしながらガチャガチャと鍵をかけて最寄り駅近くのスーパーに向かった。


スマホを触りながら駅までの道を歩いているとふと住宅の花壇に目がいった。色とりどりに鮮やかな花が咲いていて、気が付けば一歩二歩と花壇に足が引き寄せられるようだった。紅紫色の小さな花の近くにレンゲソウと書かれた名札が土に刺さっていた。


またそのさらに近くにはカスミソウの名札が刺さっていた。けれど芽が出る前だろうか。そこにカスミソウの姿はなく、ポツンとそこだけ土が広がっていた。


駅に着くと人がごった返していた。照り始めた5月の日差しが包み込むように街ゆく人達を照らしていた。スーパーの方まで向かっていると、肩を軽く叩かれた。瞬時に不安に包まれつつ振り返ると、そこにあったのはエリカさんの姿だった。


「あぁ!やっぱ橋宮くんじゃん!何してんの!」

オフの日のエリカさんは店での印象とはガラッと変わっていて、一瞬誰だか分からなかった。白いブラウスにペールブルーのロングスカートがエリカさんのスタイルを映し出すようだった。


「エリカさんこそ、奇遇ですね。俺はちょっと買い物に。」「へぇ〜偉いじゃん。自炊できる男はモテるよ?」服装とは裏腹にいつもの客と話すテンションで話すエリカさんと立ち話をしていた。


「エリカさんこそ、こんなとこで何してたんですか?」「ちょっと散歩。暇だったしさ。なーんか家居てもなぁって。」長い髪を手櫛でとかしながらボソボソと呟いた。


「橋宮くんさ、暇してない?どうせならちょっと話そうよ。」「えぇ全然。お付き合いしますよ。」「ふふ、カッコイイこと言うじゃん。じゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな。」


ショルダーバッグを肩にかけ直して振り向いたエリカさんに俺はついて行った。


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