んー、そっか。
涼香さんは、俺の隣で膝を抱え込むように小さくなっていた。ブカブカの服がその華奢な体を一層際立たせている。部屋の明かりが彼女の顔の影を長く落としていた。
「橋宮くんはさ、どうしていつも私を助けてくれるの…?」
その問いに俺は一瞬言葉に詰まった。どうしてと言われてもうまく説明できる言葉が見つかるはずがなかった。ただ涼香さんが困っていると知れば体が勝手に動いてしまう。それだけだった。
「どうしてって、ボーイとしての務めですよ。涼香さんの担当である以上、涼香さんを放っておく訳にはいきませんから。」
俺から出たその答えが、本心なのか、取り繕った答えなのか、俺にはもう分からなかった。彼女の視線が俺の顔にゆっくりと向けられた。その瞳の奥にはまだ不安と、そして何かを測るような光が揺れている。
「橋宮くんが怒んないでいてくれてよかった。」
涼香さんがそう呟いた。沈黙が続いていた部屋で発せられたその言葉に俺は気付いたら笑みが零れていた。
「どうして俺が怒るんですか?」俺は優しく問い返した。
「だって、私のせいで怪我したしさ…」
彼女の言葉に俺は少し笑った。
「あれは、俺が勝手に突っ込んだだけですよ。それにもうほとんど治りましたから。涼香さんは何も悪くないですよ。本当に。」
俺は彼女の目を見てできるだけ優しい声でそう言った。彼女がこれ以上自分を責める必要はないと伝えたかった。
涼香さんは俯き、ぎゅっと唇を噛みしめた。そして小さな声で呟いた。
「あのね、あたし別れたんだ。彼氏と。」
その言葉に俺の心臓が大きく跳ねた。やはりそうだったのか。彼氏の車から降ろされたという状況から、おおよその察しはついていたが彼女の口から直接聞くとその重みが違った。
「…そう、ですか。」
俺はそれ以上の言葉が見つからずただ、その事実を受け止めるしかなかった。
「車で話し合いをしようとしたんだけどね、結局いつも通り怒鳴り散らされてさ。途中で何も言わずに降ろされたんだ。」
涼香さんは少し悲しそうにそう言った。あの男の顔が脳裏に浮かび、僅かな怒りがこみ上げてきた。けどその気持ちも、涼香さんへの心配や同情のようなものにすぐ変わった。
「…ひどいですね。」
俺は絞り出すように言った。それ以外の言葉が出なかった。
「もう…どうしたらいいか分からなくてさ、どこにも行くところも無いし…」
涼香さんの瞳から小さく涙が溢れ出した。声を出さずにただ静かに涙を流している。
俺はそばにあったティッシュで彼女の涙を拭い、彼女の細い背中をそっと撫でた。弱々しく涙を流す姿を見て、なぜか俺は泣きそうになった。その涙がどの感情から来るものかは理解できなかった。涼香さんが悲しんでいる姿を見るのが辛かったのかもしれないし、俺にここまで自分をさらけ出してくれた事があまりにも嬉しかったからかもしれない。俺は涼香さんにここまで魅了されていたということだけが、ただ一つだけ分かった。
しばらくすると、涼香さんの瞼は閉じきって、スースーと小さい寝息が聞こえた。俺は静かに立ち上がり、彼女の背中と膝に腕を通し、彼女を持ち上げた。寝室のドアを開けて、家具屋で昔安く買ったマットレスに彼女を寝かせた。良いベッドを買って置けばよかったと少し後悔した。
部屋を出た俺は脱衣所に直行して服を脱ぎ、風呂に入る準備をした。少し濡れたワイシャツとズボンを足元の洗濯カゴに洗濯物を入れようとした。その時カゴには涼香さんの着ていたブラウスとスカートが入っていた。見慣れない光景に思わずドクンと心臓が鳴るのを感じた。
自分の脱いだ服を床に放置して、カゴの中身を洗濯機に入れた。変な気持ちは全く無かったが、女性の服を触っていることが背徳感を加速させていた。服を入れ終わって風呂に入ろうと思った時、カゴの底に何かが見えた。二度見の勢いで確認したそれは涼香さんの下着だった。
思わず目を見開き、極力それに触らないようにカゴを洗濯機の上で逆さまにした。そのまま見ないように洗剤を早急に入れて洗濯機を回し、すぐに風呂に入った。冷たいシャワーを滝行のように頭から被った。流れる水は鼻血で少し紅く染まっていた。
風呂から出ると、洗濯機は轟音を上げて動いていた。脳裏に焼き付いた淡い桜色の光景に何も考えられなくなっていた。髪を乾かして歯を磨いてから洗濯機が鳴り止むのをリビングのソファで待っていた。
髪をかきあげて俯いていた。ここ連日の出来事が非現実に思えるほど衝撃的だった。なんだか活力を失ったようにぼーっとする事しかできなかった。少し横になろうと思い、寝室に毛布を取りに行った。タンスを開いて取り出している時、涼香さんがゆっくりと起き上がった。
「ごめん、寝ちゃってた。」涼香さんはいつものテンションで冷静さを取り戻したようにそう言った。「すいません、起こしちゃって。寒くないですか?」涼香さんはコクリと頷くとすぐに「橋宮くんはここで寝ないの?」と聞いた。
頬が熱くなると同時に脈拍が早くなる。狭いシングルのマットレスに彼女と寝るのか。考えただけで気を失いそうなほどの興奮に包まれそうだった。「いや、俺はソファーで寝るんで大丈夫ですよ。」興奮を必死に抑えるようにいつものトーンでそう言った。
「んー、そっか。」と俯くように涼香さんは言った。なぜか残念がっているようにも見えたが、きっと考えすぎだと思ってそっとしておいた。その時洗濯機がピーピーと乾燥が終わった音を知らせた。洗濯を回していたのを思い出したのもその時だった。
「あの…涼香さん、」俺は言葉を探りながらそう言うと涼香さんは寝ぼけ眼の優しい顔でこちらを向いた。
「お洋服が濡れてたんで洗濯したんですけど…その…」下着のことをわざわざ明言しようか迷っていた時、涼香さんから口を開いた。
「あーそうだ。ごめんね。洗濯までさせちゃって。」寝相で崩れた髪を手で梳かしながら申し訳なさそうにそう言った。あまりにもあっさりしたその答えに拍子抜けしそうだった。表情に出ていたのか、涼香さんにどうしたのか聞かれた。
「その…服勝手に触られたりして、嫌じゃなかったかなと…」涼香さんは「え?」とはっきり言ったあとクスクスと笑った。「全然平気だよ。むしろ洗濯してもらっちゃったし。」そう言うと涼香さんはまたもクスクスと笑みを零した。
「橋宮くん、顔赤いよ?」悪戯そうな顔で涼香さんはそう言った。俺は恥ずかしさが込み上げて、手に持ってた毛布で顔を隠すようにした。それを見るなり涼香さんは水を得た魚のように俺にちょっかいをかけてくる。
「ねーどうしたの?何恥ずかしがってるのー?」「いやっ、な、なんでもないっすよ」俺の顔色を探るために毛布を剥がそうとしてくる涼香さん。その顔は屈託の無いカラッとした笑顔だった。




