お邪魔します
涼香さんの体はひどく冷たかった。雨に濡れた薄いブラウス越しに、その細い肩が震えているのが伝わってくる。彼女の顔は俺の肩に深く埋められ、まるで幼子のように泣きじゃくっていた。これほどまでに感情を露わにする涼香さんを見たのは、あの病室以来だった。あの時よりももっと深く彼女の心が傷ついているのが痛いほど伝わってきた。
頭上では雨粒が傘を叩く音を立てている。駅前の喧騒は夜遅くには鳴りを潜め、俺たちの周りには雨音だけが響いていた。冷たい雨が降り注ぐ中、涼香さんの僅かな体温だけが、俺の腕の中で唯一の温もりだった。
「ひっ…ぐ…っ…」
彼女の泣き声が、俺の胸にじんわりと染み渡る。一体何があったのだろう。この大雨の中、彼氏の車から降ろされたのだろうか。その状況が、頭の中で鮮明に再現され、俺の胸は怒りと悲しみで締め付けられた。
俺はただ涼香さんを抱きしめ続けた。邪な気持ちも、浮き足立った気持ちも無く、ただここに俺がいること、彼女を一人にしないこと。それが今の俺にできる唯一のことだった。
「大丈夫です。もう一人じゃないです。俺がちゃんとここにいます。」
俺は彼女の濡れた髪をそっと撫でながら、安心させるように囁いた。その声が彼女の耳に届くことを願った。俺の腕の中で涼香さんの体が、微かに強張るのがわかった。
彼女の泣き声は続く。俺はさらに優しく抱きしめ直した。冷たい雨が降り注ぐ中この腕だけは彼女にとって侘しさを忘れられる場所であってほしい。しばらくそうしていると、涼香さんの震えが少しずつ治まってきた。落ち着きを忘れた泣き声は、やがて啜り泣きへと変わり、最後には静かな呼吸だけが聞こえるようになった。彼女はゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見上げた。思わずその表情に心臓がドクりとした。雨に濡れた前髪が、その顔に張り付いている。
「橋宮くん…ごめん…」
掠れた声で、彼女はそう呟いた。その声には、深い疲労と、恥ずかしさが入り混じっていた。
「謝らないでください。大丈夫、大丈夫ですから。」
俺は涼香さんの濡れた頬をそっと拭った。ひんやりとした彼女の肌に触れる指先が微かに震える。その感触が彼女がどれほど心細かったかを物語っていた。
「ありがとう…本当に…」
涼香さんはもう一度、小さく呟いた。その目にはまだ涙が溜まっているが絶望の色は薄れているように見えた。
「もう、大丈夫ですか?」
俺がそう尋ねると涼香さんは小さく頷いた。
「うん…少しだけ…」
「涼香さん、俺家まで送りますよ。」前までの緊張しながら家までの送迎をしていた自分の姿はもう無く、堂々と安心感を与えるように声をかけた。
「でも、悪いよ…私の家遠いしさ。」
「けど早く温まらないと風邪引きますよ…。」
涼香さんは寒さを堪えながら困っている様子だった。そんな彼女に俺は意を決して言った。
「なら…俺ん家ならそこまで遠く無いですし、シャワーだけでも浴びて行ってください。」
「そんな、悪いよ。急に橋宮くんの家にお邪魔するなんて…」
「良いんです。そんなびしょ濡れなのに放っておく訳には行きませんから。」
涼香さんは一瞬ためらったようだったが小さく頷いた。「…ありがとう。」
その声はまだ弱々しかったがどこか安堵した響きを含んでいた。俺は着ていたジャケットを手渡し、涼香さんに着させた。温もりを感じた彼女は柔らかな笑顔を見せた。やっぱり涼香さんは笑顔の方が素敵だ。
俺たちは雨の中、ゆっくりと歩き出した。傘が叩く雨音だけが響く静かな夜道。俺たちの間にこれ以上ないほどの静寂が広がっていた。だがその沈黙は決して気まずいものではなかった。むしろ互いの存在を確かめ合うような温かい沈黙だった。
俺の傘の下で涼香さんの香水の香りが雨の湿気を含んで、以前よりも強くそして甘く香る。その香りは俺の心を刺激して、複雑な感情をさらに掻き立てた。彼女は今、俺の隣にいる。その事実が俺の胸に重くそして甘く響いていた。
濡れたアスファルトに街灯の光が反射してぼんやりと輝いている。遠くに見えるマンションの明かりが、まるで俺たちを導く道しるべのように感じられた。涼香さんは俺のワイシャツの袖をきゅっと握っていた。俺は一歩一歩自宅へと向かった。この雨の夜が二人の関係をまた一つ深く刻んでいくような気がした。
俺のマンションに着くとエレベーターで部屋まで上がった。オートロックの鍵を開け明かりを点けると質素なワンルームが姿を現した。普段は無機質に感じる空間が、涼香さんがいるだけでどこか温かい雰囲気に包まれる。
「どうぞ、中へ。…狭いですけど。」
俺がそう言うと涼香さんはゆっくりと部屋に入ってきた。彼女は濡れた体で立ち尽くしどこか所在なさげに部屋を見回している。
「あの…シャワー浴びてすぐに温まってください。風邪ひいちゃいます。」
俺は浴室の場所を指し示した。タオルや簡単な着替えのTシャツとスウェットを準備するため、クローゼットへ向かう。
「ほんと、ありがとう…お邪魔します。」
振り返ると、彼女はなんだか少し恥ずかしそうにそう言っていた。クローゼットから出したのは俺が着ていない大きめのTシャツと、夏用のスウェットだった。おそらく涼香さんにはブカブカだろうが他に選択肢はなかった。新しいタオルも探し出して、まとめて涼香さんに手渡した。
「これ、よかったら使ってください。サイズは大きいと思いますけど…」
涼香さんは、俺が差し出した服を受け取ると、小さく頷いた。その手はまだ少し震えていた。
「ありがとう…使わせてもらうね。」
彼女はそう言うとゆっくりと浴室へと向かっていった。シャワーの音が聞こえ始めると俺はソファに座り込み大きく息を吐いた。緊張していた体がようやく緩むのを感じる。
部屋の窓の外からはまだ雨の音が聞こえる。遠くでサイレンの音が聞こえ東京の夜が深まっていく。ソファに深く沈み込み目を閉じる。今日一日の出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。病院を抜け出し店長と語らい、そして雨の中で涼香さんを見つけたこと。彼女を抱きしめた時の冷たさと微かな温もりと震え。俺の腕の中で泣いていた彼女の姿が鮮明に蘇る。
なぜ俺は彼女をこんなにも放っておけないのだろう。いつからこんなにもずっと彼女のことを考えていたんだろう。彼女が困っていると知ればどんな状況であろうと体が勝手に動いてしまう。それは単なる後輩としての感情ではない。もっと深く、もっと複雑な、何か抗えない力に突き動かされているようだった。
しばらくすると浴室のシャワーの音が止まった。やがてドアが開く音が聞こえ涼香さんが姿を現した。俺のブカブカのTシャツとスウェットを身につけた彼女は普段の煌びやかな姿とは全く違い、柔らかなゆるりとした雰囲気を醸していた。髪はタオルで拭いたばかりで、少し湿っている。
彼女の顔はシャワーで温まったのか、少しだけ血色を取り戻していた。しかしその瞳の奥にはまだ深い影が残っている。
「お先に。ごめんね、家主より先に入っちゃって。」
涼香さんは少しはにかんだように微笑んだ。その笑顔はまだどこかぎこちなかったが俺の心を安堵させた。
「良かったです。何か温かいものでも飲みますか?コーヒーか、紅茶くらいしかありませんけど…」
俺がそう尋ねると、涼香さんは小さく首を振った。
「ううん、大丈夫。…あの、ほんとごめんね。こんな時間に迷惑かけちゃって。」
涼香さんは申し訳なさそうに俯いた。その細い肩が再び微かに震えているように見えた。
「大丈夫です。涼香さんが無事で何よりです。…それに迷惑だなんて、少しも思ってませんから。」
俺がそう言うと、涼香さんは俺の隣に座った。彼女の横顔をじっと見つめる。彼女の瞳の奥にまだ何か言いたげな感情が揺れているのを感じた。
この雨の夜がまだ終わらないことを、俺はどこかで願っていた。




